2011年の東日本大震災から3月11日でまる11年。被災地の今を訪ねた。
宮城県南三陸町。町内では620人が亡くなり、今なお211人の行方がわかっていない。震災後、町の姿が大きく変わりつつある。
地震後の津波で多くの人が亡くなった旧防災対策庁舎。周辺は「南三陸町震災復興祈念公園」として整備され、3月11日も多くの人が訪れていた。大きな体を丸めるようにして手をあわせていた気仙沼市の80歳の男性。仕事で55年もの間、南三陸町に通っていたという。娘の結婚式にも来てくれた友人の妊娠6か月の女性が波にさらわれ、亡くなったと話す。「いろいろなことが思い出されて、泣けてくる。忘れられなくて、悔しくてね。」と涙を浮かべて話した。
震災後、志津川高校に避難し、約1年間、仮設住宅で暮らした後、仙台に移り住んだ今年81歳の女性は「地震の時、高齢者の集まりに出ていて、その建物の屋上に逃げて助かった。あの日、午前中はいい天気だった。でも、地震と津波の後に曇ってきて雪が降ってきた。とにかく寒くて風邪をひいてね、大変だった。」と振り返った。女性の長男は町の職員だったが、津波で亡くなった。「考えるとつらいね。婚約者もいたんです。ここ(旧防災庁舎)は残っていてほしい。長男が仕事していた証だから。ここがあるから今も花を持って来ている」。
南三陸町防災対策庁舎は津波が来た時、多くの人たちが命をつないだ場所だ。鉄骨3階建て高さ12m。屋上には約6mの無線用のアンテナがあったが、そこまで津波は押し寄せた。波から逃れようと避難した人たちはアンテナなどにしがみついたが、15.5mもの津波が押し寄せ、避難していた54人のうち43人が亡くなった。震災の後、町では防災庁舎を「震災遺構」として保存しようと考えたが、町内の意見は割れた。「建物を見ると、身内が亡くなったのを思い出してつらい」と反対する意見がある一方で、「ここに来れば亡くなった家族に会える。建物がなくなると会いに行けない」と賛成する声も多かった。一度は解体が決まったが、宮城県が震災から20年の2031年まで保存することになり、その時点で改めて議論することになっている。
防災庁舎のすぐ横にある海を見下ろすことができる「祈りの丘」には、震災で亡くなった人たちの名簿が納められている。「名簿安置の碑」で手をあわせていた神奈川県の60代の男性は震災後、泥かきなどのボランティアに何十回も来たという。そこから見る町内の風景を「すっかり変わった。いろいろな思いはあるけれど、外の者がとやかく言うことではない」。建築を学んでいるという県外の女子大学生は「高校の時の授業で南三陸に来たことがあった。その時とはまったく別の風景で驚いた。新しくなった商店街に地元の人があまりいなかった」と話した。