《東日本大震災から11年・現地のいま(2)》福島県内 伝わっていない原発事故被災地の現実 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

《東日本大震災から11年・現地のいま(2)》福島県内 伝わっていない原発事故被災地の現実

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 2011年の東日本大震災から3月11日でまる11年。被災地の今を訪ねた。

 そこには音がなかった。正確に言えば風の音しか聞こえなかった。

 福島県の県庁所在地・福島市から沿岸部に向かうと、途中に飯舘村がある。原発事故の避難対象地域だが、人が少しずつ戻って来ている。道の駅もでき、多くの観光客や地元の人たちが訪れていた。役場に行ってみると子どもたちの歓声が聞こえてきた。道路を挟んだ反対側に大きなグラウンドがあり、大勢の子どもたちがサッカーの練習をしていた。時折、聞こえる笑い声。人の声がこんなにもあたたかく感じるのかと思った。

飯舘村の表示板
飯舘村の表示板

 しかし、すぐに現実に引き戻された。赤い数字が表示されている機械。放射能の空間線量計だった。数字は0.24マイクロシーベルト。ここは東京電力福島第一原子力発電所から約39キロの地点。こうした線量計は、町の中や、まだ雪が残る山の中まであちこちに設置されていた。放射能の危険と隣り合わせであることがわかる。

飯舘村役場
飯舘村役場
放射能空間線量計(飯舘村)
放射能空間線量計(飯舘村)

 いくつもの山を越え、福島県浪江町に着いた。震災前の人口は約21,000人だったが、原発事故で避難指示が出され、現在は約16,400人と大きく減った。今なお、一部地域には避難指示が出されている。浪江町の玄関口・JR浪江駅前。県外からとみられる人が駅舎の写真を撮ったりしていたが、地元の人の姿はほとんどなかった。駅前の小さなロータリーには客待ちのタクシーが1台。そこから進むと住宅が立ち並んでいた。しかし、生活音が聞こえてこなかった。震災前は住宅のほかに商店も立ち並び人々の営みがあった。今も住宅はあるが空き地が目立ち、草が生え、住宅の基礎だけという所が多い。

浪江駅舎
浪江駅舎
浪江駅前
浪江駅前

 住宅街を抜けると、車が行き交う県道に出た。道路沿いには町役場や警察署などの公共施設、飲食店などが立ち並んでいる。そこからさらに進むと、にぎやかな音楽が聞こえてきた。行ってみると、大勢の人が集まっていた。「新町にぎわいマーケット 2022」。たくさんのテントが張られ、音楽が流れ、キッチンカーの前で飲食する人たちやフリーマーケットで買い物を楽しむ人たち。会場にあふれる笑顔や楽しそうな声。小さな子どもを連れた若い夫婦が笑顔で会場に歩いていくのとすれ違った。

 多くの人は車で会場に来ていたようで、そばにある大きな空き地を駐車場として使っていた。入口には「浪江町立浪江小学校」のプレート。1873(明治6)年創立という歴史のある小学校だ。震災前に500人以上いた児童も避難を余儀なくされ、2020年度には在校生がいなくなり、2021年3月末で廃校となった。校舎などは解体され、今は門柱と校訓が書かれた石碑が、学校だったことを教えてくれる。近くの飲食店で話を聞いてみると「きょうはお祭りをやっていて。あちこちから来られているみたい。」と笑顔の女性店員。しかし、震災以降の町のことを尋ねると「私はよくわからない」と口が重くなった。

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