小野さんははじめ、ウクライナ人の日本での受け入れに奔走した。そして日常で使える簡単な日本語会話集を作成、少しでも異国での緊張をほぐそうと茶話会も企画した。しかし、多くの避難者は日が経つにつれ、心理的に落ち込んでゆく。しだいにオンラインでウクライナ語によるカウンセリングなど、支援のあり方も変化していった。軍事侵攻から9か月近く経ち、日本をはじめ、国外で避難者を受け入れる時期ではなくなっている。
IOM(国際移住機関)によると、ウクライナ国内の避難民は9月26日現在で624万3000人と推計されている。厳しい冬に備えて、シェルターや暖かい衣類などの支援が求められている。同時に、破壊された住宅をどう再建するのかも課題となっている。
小野さんによると「今年(2022年)春に日本へ避難してきたウクライナの人々の多くは、年内に帰国すると表明している」という。この背景には、ウクライナやウクライナ人に対する理解がないまま引き受けていた現実がある
例えば食生活。コロナ対策で入国後、約1週間の隔離機関があったが、そこで配られる日本の弁当は米がメイン。普段、米を食べないウクライナ人にとって、毎日の米食は消化できず、パン食への切り替えを求める避難者も多かったという。
また、辛い料理が苦手で、日本では国民食として外国人に振る舞われるカレーライスが食べられなかったり、煮え立つような熱いものが苦手で鍋料理が受け入れられなかったりと、しだいに「大きな隔たり」になっていた。
ウクライナでは2月の軍事侵攻以降、約1300万人が国外に避難した。ポーランド、フランス、イギリス、ドイツ、日本……ウクライナ人が避難する国々でさまざまな課題が浮上した。言葉や生活習慣の壁は思った以上に高く、母国へ帰国する避難者も多い。そこでウクライナ国内での安全な地域へ避難する人が増え、避難所の不足が問題化している。一部では学校や民宿での受け入れの際に盗難などのトラブルもあったという。避難する側、受け入れ側がともに安心できる空間の確保が求められている。
そこで小野さんは、比較的被害が少ないとされる西ウクライナに避難所を作り、身の安全を確保してもらうことを考えた。キーウ近くに暮らすNGO「ドブロ・ダーリ」(ウクライナ語で「善行」の意味)代表で、日本文化交流協会アドバイザーのアンドリー・ブチネフさんが小野さんに打診していた。ブチネフさんは京都大学などでの留学経験があり、日本でODAに関わったこともある。
2ヘクタールほどある広大な土地、コテージ風の建物が西ウクライナ近郊の村にあり、ここに約30人が収容できるよう、改築に取り掛かった。しかし、建物は元来サマーハウスとして建てられているため、屋根が薄っぺらい。これから本格的な雪の季節がやって来る。このため、屋根を強化しながら「(アルファベットの)A」を形取ったものにするなどの工夫が必要だ。ウクライナの冬の寒さは想像以上に厳しい。部屋には暖房のためペチカを置き、薪を焚く。
周囲の道は舗装されていない。日本での感覚ならばアスファルトを引けば良いのだが、厳冬のウクライナは、気温がマイナス20度まで下がるため、アスファルト自体が割れてしまう。代替策として500メートルほどの道に石を敷き、石畳にするという。
現地では外国との交流も初めてだったが、小野さんの活動に協力的だった。ウクライナ国内での避難所確保が急がれる。国内での避難者受け入れだけでなく、軍事侵攻終結後は日本との交流を深める施設を、という思いで建設は急ピッチで進む。
土地・建物の購入や運営には約10万ドル(約1500万円)が必要で、このうち4割は日本からの寄付金が充てられている。ブチネフさんのNGOが運営に当たり、準備が整いしだい受け入れが始まる。