「手作業だけでは、人は助けられない」。資器材を使いこなすためにも訓練の必要性を訴える。レスキューの世界では、1人が持ち上げられる重量が、一般的に50キロとされているという。仮にウエイトリフティングで100キロを上げることができても、災害現場ではそうはいかない。しかし、工具(ジャッキ)を使えば、最大1トンまで上げることができると話した。
そして、「訓練でできないことは、災害現場(本番)でもできない」と説いた。
三戸さんはさらに続ける。「現場で『要救助者(被災者)』を助けるためには、日頃の訓練で自分とチーム(仲間)の身の安全を仕上げておくこと」。行き当たりばったりで現場の救助活動は成り立たない。
「災害現場は理不尽である」。無事だった人は、すでに被災家屋から屋外へ移動し、まさに“一命を取り留めている”。救助の際、目の前にいる人は、“生命維持のために、一刻を争う状態”。
東日本大震災でも、もっと多くの人を救助できたのではないかとの後悔がよぎる。訓練でも、こうすれば良かったのではないかと課題は残る。この積み重ねを必ず次に生かさなければならないと訴える。「こうして自らの限界を伸ばすことが求められるのだ。派手な現場はない.」と信じてやまない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
■「指輪だけでも」忘れられぬ、妻の一言
神戸北警察署警備課長・藤江幸生警部(57)は、阪神・淡路大震災当時、川西警察署に勤務。神戸市の西部、垂水区の自宅で”ごう音”と”縦揺れ”で飛び起きた。「隕石(いんせき)が落ちたのか?」と思ったという。署から招集がかかり、すぐさまラジオで鉄道の運行状況を聴いたが、すべて不通との情報。自家用車で向かうことに。神戸の中心部・三宮で通行止めとなり、六甲山経由で迂回し、通常なら1時間30分と想定されるところを約8時間で到着した。その後、他府県の警察で構成する特別派遣部隊とともに被災地で救出活動に当たることとなった。部隊長から「私たちは皆さんと一緒に、この大震災に立ち向かうために来たのです」と声を掛けられ、心強く感じた。
兵庫県警ではこの年(1995年)の3月、災害対策課を新設、藤江さんも配属され、避難所のサポートに当たる中、被災者から激励の言葉を掛けられ、意気に感じた。
その後、東日本大震災で他府県からの応援のトップを切った兵庫県警。阪神・淡路大震災の経験を生かして発足した広域緊急援助隊はその日に動いた。藤江さんは管区機動隊の幹部として、宮城県石巻市をはじめ、何度も現地へ向かった。隊員には「阪神・淡路大震災で多大な応援を受けた兵庫県警は、被災者の気持ちが一番わかるはず。自分の家が倒壊した、自分の肉親を捜しに来たと思って捜索を」と指示をしたという。
東日本大震災が起きた2011年、すでに阪神・淡路大震災を知らない世代の隊員が多くなっていた。しかし、過酷な環境の中で、派遣された警察官が誇りと使命を持ち、被災者のために全力を注ぐ姿を見て頼もしさを感じた藤江さん。「今度は皆さんがその立場となる」と力を込めた。
南海トラフ巨大地震は30年以内に70~80%の確率で発生すると予測されている。揺れは3分程度続き、淡路島などで津波の高さが最大8メートルを超えるなど、近畿のみならず、広範囲で甚大な被害をもたらす恐れがあることから、藤江さんは「ここまで大規模になると、他府県からの応援はない。自分たちで兵庫を守らなければならない」と話した。
28年前の被災時も、東日本大震災の派遣時も、自宅を出る際に妻から言われた一言が忘れられない。「せめて(結婚)指輪だけでも付けておいて」。機動隊経験が長い藤江さんは、大盾などの装備品を持つこと多く、普段は指輪をしていなかった。妻は、二次災害が起きて、(自身が)遺体となって見つかった場合、その姿が判別できるように、との思いだったという。