《阪神・淡路大震災28年》ポスト震災世代は今「神戸に生まれ、神戸の100年企業へ」曽我笑夢さん(1996年生まれ) | ラジトピ ラジオ関西トピックス

《阪神・淡路大震災28年》ポスト震災世代は今「神戸に生まれ、神戸の100年企業へ」曽我笑夢さん(1996年生まれ)

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 中学・高校時代、駅伝の強豪・須磨学園(神戸市須磨区)陸上競技部で鍛えられ、3年時は副将としてチームを支えた曽我さん。東洋大学の4年間も陸上競技部に所属、主将を務めた。大学時代、地元・兵庫で走れるレースには是非臨みたいと強く願っていた。それは自身が中学生の頃から出場していた『兵庫県郡市区対抗駅伝』。兵庫各地から中高大学生、実業団、クラブチーム所属選手らが1つのチームとしてたすきをつなぐ歴史ある大会だ。
 大学進学で関西を離れた須磨学園の先輩が、この大会の時に兵庫に戻り、走る姿が生き生きと楽しそうに見えた。

兵庫県郡市区対抗女子駅伝出場時の曽我さん<2018年2月4日 兵庫県加古川市> ※画像提供・曽我笑夢さん
地元・神戸でのチームプレーに連帯感を感じ、地元愛を呼び起こされた

 通常、駅伝は所属チームや学校単位での、いわば「タテの糸」でのチームプレー。しかし郡市区対抗駅伝は地元チームでの流れを優先する「ヨコの糸」。アスリートとして、決して満足のいく結果でなくとも、特別なレースを経験したことで、地元・神戸に対するマインドが高まっていく。

■「“大好きな神戸”そのままで…」

 東京は人も多くてマーケットも大きく、流行を先取りする街は、大学生にとって魅力的だが、少し疲れていた自分もいた。単なるホームシックではない。
 久々に実家へ帰ると目に映るのは、神戸を象徴する山と海の調和、都会と自然がマッチした空間、人との距離感、街の規模……どれを取っても、曽我さんにとっては心地よかった。住むならやっぱり神戸。神戸に戻るきっかけはここにもあった。
 「神戸に帰るんだ」という漠然とした思いから、やがて「地元の神戸に貢献するために」という、明確なかたちになっていく。

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 そして、100年企業と呼ばれ、港町・神戸らしく、舶来品のカレーなど洋風料理をを日本で初めて調理缶詰にした老舗「エム・シーシー食品」(本社・神戸市東灘区)に入社することになった。アスリートとして”食”に関しての意識が高かった曽我さんは、”食”でアスリートを支えたい、との思いで管理栄養士の資格を取得しようとしていたこともあり、将来の自分の姿が想像しやすい職場だと思えた。

 実際に神戸で働くようになると、色々な声が聞こえてくる。「神戸からの人口流出が増えている」「神戸から若者が離れていく」、こうした話題を耳にすることが多くなった。

 しかし曽我さんは、阪神・淡路大震災を経験した神戸、多くの人の温かさに触れた神戸だからこそ、「神戸は素敵な街。もう一度行きたい、戻りたいと思ってもらえる街に」と願う。

日本三大夜景の一つ・摩耶山掬星台(きくせいだい 神戸市灘区摩耶山町) ※画像提供・曽我笑夢さん

 神戸には、人々をオープンに受け入れる土壌があると信じてやまない。駅伝強豪校で「様々なバックグラウンドを持つ人がそれぞれの強みを活かしてチームに貢献して、ひとりひとりが輝けるように」というスタンスを指導されてきたことも影響している。

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