かつて、空地や路地で子どもたちを熱狂させた街頭紙芝居。 独特の自転車でやってくる紙芝居屋さんを懐かしく思う人や、テレビや映画で見たことがあるという人も多いのではないでしょうか。 最盛期は昭和20〜30年代後半といわれており、その後も語り部さんたちによって続けられてきました。
当時は全国に5万人ほどいた紙芝居屋さんですが、テレビやゲームなど、遊びの種類が増えことによりその数は大幅に減少。しかし、現在も街頭紙芝居を続けている施設があることをご存知でしょうか? 今も、子どもたちに物語を届け続けている「一般社団法人塩崎おとぎ紙芝居博物館」(大阪市西成区)の大塚珠代さんに話を聞きました。
―――紙芝居はいつからある? 最盛期は?
【大塚さん】 絵を見て語るという意味では、平安時代に書かれた源氏物語のなかに“絵物語を聞かせる”ものがあり、それが起源といわれています。その後、徐々に形を変えながら、昭和5年に今のような1枚の絵でストーリーを語る平絵(ひらえ)の紙芝居ができたといわれています。同じころ、関東で街頭紙芝居が行われるようになったそうです。
当時は戦時中だったこともあり、国の主導で作られた「国策紙芝居」という戦争を賛美するような内容の紙芝居が主だったとされています。その後、戦争が終わった昭和20年代に最盛期を迎えました。しかし、昭和の終わりごろにはかなり衰退してしまい、多くの語り部さんが引退していきました。
―――なぜ街頭で行われるようになった?
【大塚さん】 子どもがたくさんいる場所に自ら行く、という目的からだと思います。その目的から、自然と子どもたちが通る路地や遊び場となっていた空き地などで行うようになりました。今と違い、当時は交通整備されていない路地や公園などが少なく、空き地などが子どもたちの遊び場でしたね。
―――当時、街頭紙芝居が多かった理由は?
【大塚さん】 ひとつは、戦後の失業者の受け皿としての職業という役割がありました。戦後、景気が悪いなかでの失業者対策として、国が「街のどこでも紙芝居をしていい」と街頭紙芝居免許を配布し推進していました。
当時、語り部のほとんどが男性でした。ただ単に紙芝居を語るというだけでなく、水あめ、型抜き、酢昆布などのお菓子を売ることで紙芝居を見せ、「見代(みだい)」や「見料(けんりょう)」と呼ばれるもので利益を得る。ボランティアではなく、あくまでも商売としての紙芝居屋さんだったんです。