《神戸連続児童殺傷事件26年》“生きた証(あかし)”人知れず廃棄され…「つらく切ない、でも落ち込んでばかりは…」土師守さん | ラジトピ ラジオ関西トピックス

《神戸連続児童殺傷事件26年》“生きた証(あかし)”人知れず廃棄され…「つらく切ない、でも落ち込んでばかりは…」土師守さん

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■つらく、悲しいことを思い出す時、一語一語言葉をかみしめる。
できることなら、「私たちと同じ思いをしてほしくない」と願う。

インタビューに答える土師守さん<2023年5月16日 神戸市内>

 土師 守さん。1997(平成9)年5月24日、世間を震撼させた「神戸連続児童殺傷事件」で次男・淳君(当時11歳)を失った。「何年経っても、淳への思いは同じ。純粋な子どもだった。普通に怒ったり笑ったり、いつも思い浮かぶのは、どんな子どもにもある表情。
 事件後に長男が結婚、孫も成長した。私も妻も年を重ねていく。でも、亡くなった淳は、あの時のまま。だからこそ、時の流れを感じる」。

 淳君の命日を前に、守さんはラジオ関西の取材にこう答えた。

 守さんは2018年に解散した全国犯罪被害者の会(あすの会・2018年に解散)で、犯罪被害者や遺族の権利の確⽴を訴え56万⼈分の署名を集めて犯罪被害者等基本法の成⽴にも貢献した。その後、被害者・遺族が刑事裁判に参加し、被告⼈に直接問いかける「被害者参加制度」の実現や殺⼈事件などの時効の撤廃にも⼒を注いだ。

 あすの会の創設に携わり、代表幹事も務めた岡村勲弁護士は、1997年に妻を殺害された犯罪被害者。「身代わりとして妻が命を失い、自分を責めるばかりだった」と振り返り、「ここまで被害者の権利がなかったのか」との思いで立ち上がり、守さんらと犯罪被害者としての権利確立へ、歴史を刻んだ。

 そして、2022年に新全国犯罪被害者の会(新あすの会)として再結成、守さんも幹事として、被害者に対する経済的支援の強化や「被害者支援庁」創設への働きかけを進めている。

 2023年3月、兵庫県犯罪被害者条例が県議会で可決され、4月1日に施行された。兵庫県内では、2022年2月までに全41市町で被害者支援条例が制定されたが、支援内容に格差があるため「被害者がどの地域にいても平等に支援を受けられるよう、差を埋めるような条例を作ってほしい」と支援の拡充を求めた。

土師守さん(写真右から2番目)らが斎藤元彦・兵庫県知事と面会<2022年5月23日・兵庫県庁>
「私たちと同じ思いをしてほしくない」と条例制定の必要性を訴える土師守さん <2022年5月23日・兵庫県庁>

 「犯罪被害者の苦悩、これは経験した者でなければわからない」。この思いがあるから、守さんも検討委員に加わり、より良い「セーフティーネット」作りに力を注いだ。
 2021年に斎藤元彦知事が就任し、犯罪被害者支援への理解を示したことも追い風となる。潮目が変わった。可決された条例は、相談窓口を支援メニューごとに複数置くのではなく、総合的に1つの窓口で行う「ワンストップ対応」ができる枠組みを設けた。
 犯罪によって家族の命を奪われ、被害者の権利、遺族の立場が守られていなかった四半世紀前。精神的にも肉体的にも疲弊していた自身を思い出し、「私と同じ思いをしてほしくない」という気持ちが原動力になった。

■つらく、悲しいことに直面するには、覚悟がいる。
できることなら、目を通したくはない。

事件記録の廃棄に「遺族にとって事件は終わっておらず、遺族の『知る権利』が排除された」と憤る土師守さん

 2022年10月、神戸家裁で連続児童殺傷事件に関する事件記録の廃棄が判明した。全国の地裁、家裁でも相次いで発覚した「少年事件の記録廃棄問題」。

 最高裁の内規では、少年事件の記録は、少年が原則26歳に達するまで保存すると決められ、史料的価値の高い記録などは事実上の永久保存となる「特別保存」とするように定めている。
 守さんは、「遺族にとって事件は終わっておらず、遺族の『知る権利』が排除された」と憤る。「(最高裁の内規うんぬん以前に、淳が殺害された事件は)特異性の高いだけに、事件記録は当然残っていると思っていた」と話す。
 この事実を知った時、「冗談だろう」という受け止めだった。しだいに、「これが真実なのだ」ということを実感し、怒りへと変わる。
 神戸連続児童殺傷事件は、刑事処分可能な年齢を16歳以上から14歳以上に引き下げるという少年法改正(2000年)へとつながったが、この事件の記録の閲覧ができなかった。事件が起きた1997年当時の少年法では、被害者や遺族らによる事件記録についての閲覧、謄写や少年審判の傍聴、意見陳述もできなかった。同年の法改正で可能となったが、改正前の事件は対象とならない。
 また、加害者の両親の責任を司法の場で問いたいと民亊訴訟を起こしたが(1999年に両親への賠償命令が確定)、両親が殺人の事実に関して認めて争わなかったため、調書をはじめ、全ての事件資料を見ることができなかった。
 守さんと、代理人を務める井関勇司弁護士は当初から、この事件の少年審判を担当した裁判官(故人)に記録の開示を求めたが、応じてもらえず「段ボール箱が山積みになっている。とても読み切れるものではないぐらい大変な作業だ」と言われたという。しかし、いつかこれらの記録を閲覧して、事件の真相を知る糸口をつかみたいという淡い期待があった。
 それにもかかわらず、人知れず廃棄されてしまった。神戸家裁によると、記録が廃棄されたのは2011年2月28日とみられるという。
 守さんは「事件記録は、亡くなった淳について、たくさんある資料のうち、最も重要な『生きた証(あかし)』であり『最期の”生きざま” 』が書かれたもの。積極的に目を通したいというものでもないが、(さらなる法改正で)記録を見ることができる日が来るかも知れなかった。それも記録があれば、の話。記録がなくなれば、永久に望みは叶わない」と怒りをにじませた。

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