江戸時代、大阪で発祥した人形浄瑠璃文楽。その新たな担い手を育てる養成制度への応募がなく、現在、研修生が1人もいない異例の状態が続いている。後継者不足を解消するにはどうしたら良いのか。そのヒントを見つけるべく、研修生から技芸員となった人形遣い、吉田玉路(よしだ・たまみち)さんにお話を聞いた。【2回連載の(2)】
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玉路さんは埼玉県出身。2009年、国立劇場を運営する日本芸術文化振興会が設けている伝承者養成事業の一つ「文楽」の第24期研修生となり、2011年、人形遣いの吉田玉女さん(現在は吉田玉男さん。このほど人間国宝認定が決定)に入門した。2020年と2023年に文楽協会賞〈人形の部〉を受賞、国立文楽劇場(大阪市)で現在開催されている「夏休み文楽特別公演」では、第二部「妹背山婦女庭訓」に出演している。
▽ある日、募集のポスターを見つけた
――まず、文楽の道を志したきっかけを教えてください。
【吉田玉路さん(以下、玉路さん)】 最初に文楽を見たのは東京の国立劇場で、高2か高3のとき。学校の鑑賞教室でした。その時はピンとこなかったですが、親友が「これはすごいな」と言ったのが気になったんです。その後、文楽関係の本を読んだりするうちに、だんだん興味を持つようになりました。20歳前くらいになると、アルバイト代で文楽のチケット買えるようになりました。他の商業演劇と比べると、文楽の席は比較的安くて、見やすかったですね。見ているうちに人形遣いになりたいと思うようになりました。
――最初から人形遣いになりたいと?
【玉路さん】 はい。最初から人形遣い希望でした。でも、どうやったらなれるか分からなくて。楽屋口に菓子折を持参して「お願いします!」と言いに行くべきなのかなとか、いろいろ想像しました。そうしたらある日、研修生募集のポスターを見つけて。「ちゃんとしたルートがあるんだ。これやな!」と思って、受験しました。落ちましたけど。
――えっ?
【玉路さん】 最初受けたとき、落ちたんですよ、僕。11月実施の試験でした。その3か月くらい前に大阪に来て、受かるつもりで住む部屋も決めて、合格をもらったらその日のうちに不動産屋に行って契約のハンコを押す予定だったのに。「落ちた! どうしよう!」となっていたら、帰りの(劇場の)エレベーターの中で「今年度はもう1回試験を行うかもしれない」という話を聞いて。それだったらもう一度チャレンジしようと思ったんです。結局、大阪に部屋を決めて、12月に入居。翌年3月に実施された2回目の試験に背水の陣で臨みました。
▽大学を辞めてフリーターに
【玉路さん】 人形遣いになりたいと思って、最初に問い合わせの電話をしたのが21歳のとき。その頃はフリーターでした。20歳前に大学を辞めていて、日雇い労働者としていろんな仕事をしてきました。研修生の試験を受けたのは23歳。応募条件のギリギリの年齢になっていました。2回目で合格して良かったです。
――どうして大学を辞めたのですか?
【玉路さん】 高校からエスカレーター式で入った大学でした。入学当初からなんとなく辞めそうな気はしていたんです。高校時代は映画監督とか、広告会社でCM作る人とか、クリエイティブ系の仕事がしたいと思っていました。ただ、人をまとめて進める仕事は、ちょっと違うかなとも感じていて。もともとサッカーとボクシングをやっていて、スポーツが好き。仕事を選ぶ際は自分が持っている要素を全部使いたいと思っていたので、人形遣いはその点でも良かったです。初めて心から「なりたい」と思えた具体的な仕事でした。