そして、自身の53歳の誕生日、1926(大正15)年1月3日の新聞紙上に「沿線に住居することがいかに愉快で、その生活をエンジョイできるかという理想郷を出現させたい」とコメントしている。
その理想郷が、宝塚。一三が手がけた沿線開発のシンボルといえる。
阪急電車の乗客誘致のため、1911(明治44)年、武庫川左岸に開業した温泉施設「宝塚新温泉」にはじまり、1914(大正3)年の宝塚少女歌劇が多大な人気を呼んだ。宝塚大劇場周辺には映画館、遊園地、動物園、植物園、図書館、球場、プール、レストランなどが続々とオープンする。
当時のポスターでは、女性の浴衣、団扇、提灯が納涼の定番となっている。
一三が当時、箕面や宝塚を納涼の場としたかったことがうかがえる。
そして1960(昭和35)年、宝塚新温泉の開園50周年を記念して、これらを総合した名称を一般公募し、『宝塚ファミリーランド』と命名された。実に180人がこの名を応募したという。