【中将】 森本さんから見て、この時期の沢田さんはどんな方だったのでしょうか?
【森本さん】 多少、エキセントリックな部分があったと思います。たとえば『許されない愛』は照明の演出にとてもこだわっていたので、歌っている時に会場のカーテンから光が漏れたり、カメラのフラッシュをたかれたりすると、怒ってステージにマイクを投げつけて帰ってしまうようなことがありました。観ていたファンの方たちはショックだったと思うけど、自分を高めたい、観客に自分の見せたいものを完璧に伝えたいと、必死で戦っていたんですね。
【中将】 その頑張りが実ってソロデビューから2年目には『危険なふたり』で初のオリコン1位を取るんですね。以降の沢田さんにはさまざまな作詞家、作曲家が作品を提供していますが、1975年の大ヒット曲『時の過ぎゆくままに』では初めて阿久悠さんが作詞を担当しています。
【森本さん】 TBSで久世光彦さんがドラマ『悪魔のようなあいつ』を制作するにあたり、ジュリーに主演と主題歌をオファーしてくれました。阿久悠さんが詞を書いて、作曲は加瀬邦彦さん、井上堯之さん、井上大輔さん、荒木一郎さん、都倉俊一さん、大野克夫さんの6人が競作。結果、大野さんの曲が選ばれました。実はジュリーは「歌の魅力だけで売れたい」という思いが強くて、CMやドラマのタイアップは大嫌いだったんですが、これは大ヒットになりましたね。
【橋本】 『時の過ぎゆくままに』まで来るとかなり私の中の沢田さんのイメージに近づいてきました。
【中将】 沢田さんは5年おきくらいにイメージが変わっていくんですね。ザ・タイガース時代の少年らしいあどけない魅力、ソロデビューから1970年代半ばまでの青年期の魅力、以降のギラギラしたオーラとセクシーさを兼ね備えたスターの魅力……という具合に。『時の過ぎゆくままに』もそれまでの曲に比べるとすごく退廃的な世界観で、転機になった曲だと思います。
【橋本】 曲への没頭の仕方がすごいですよね。まるでなにか憑依しているような、完璧な演じ方だと思います。
【森本さん】 どんな曲でも自分のものにして、歌いこなそうと頑張っていました。だから多少イメージが変わっても、ファンが納得して付いてくることができたのかな。
【中将】 しかも『時の過ぎゆくままに』リリースの2か月前、沢田さんはザ・ピーナッツの伊藤エミさんと結婚されています。アイドルが結婚しても人気を落とさず、これまで以上のヒット曲を出すというのは芸能界では革命的な出来事だったと思います。それを支えた渡辺プロ、森本さんの努力はとてつもないものだったと思うのですが。
【森本さん】 実はこの時期、欠員が出たヘルプで一時的にアグネス・チャンさんのマネジメントを担当していました。だから結婚前後の具体的な経緯はあまり知らないんです(笑)。でも、基本的にマネージャーとしてはプライベートはいっさい表に出さないよう努めていました。個人としての沢田研二ではなく、ステージで華やかに歌っているジュリーを見てもらうのが僕たちの仕事ですから。
【中将】 プライベートの問題は上手に乗り切ることができたのに、その後の2度の暴行事件は痛恨事でしたね……。(※1975年12月、東京駅で出迎えのファンたちをなじった駅員に頭突きし書類送検。また1976年5月、新幹線車内で「いもジュリー」と罵声を浴びせた乗客を殴打し書類送検)
【森本さん】 1回目は僕はそばにいなかったので詳しくわからないのですが、話を聞くと「やはりジュリーはファン思いなんだな」と思いました。2回目は僕も一緒にいたのですが、荷物をおろすためにちょっと目を離した隙に変な男にからまれてしまって……。殴ってはいけないと思いますが、理不尽なことをされると黙ってはいられない性格なんです。
でも、そのために、直後に予定されていたパリでのレコーディングは中止。ジュリーは1か月ほど謹慎することになり、僕も反省の印として丸坊主になりました(苦笑)。
【中将】 謹慎中の沢田さんはどんな様子でしたか?
【森本さん】 僕は当時、スポーツニッポンで『スター』という連載を持っていましたので、原稿を書くために定期的に自宅に通っていました。ギターを持って一生懸命曲作りをしていましたが、明るい曲はあまりなく、自分の内面に向き合った暗い曲が多かったですね。でもこの逆境の時期があったからこそ、ジュリーはさらに次のステージに進むことができたんだと思います。
【中将】 この時期があったから『勝手にしやがれ』(1977)の大ブレイクがあるんですね。『勝手にしやがれ』はオリコンで5週にわたって1位を記録し、第19回日本レコード大賞を受賞。この時の視聴率50.8%は現在に至るまで番組歴代最高となっています。
【森本さん】 この曲は歌手、アーティストの方からも、テレビ局の方からも、すごく評判が良かったですね。帽子を投げたり、カメラに向かって指をさす振り付けにあわせ、みんなで一生懸命演出を考えていました。当時の歌番組は観客を入れて撮影することが多かったので、僕はしょっちゅう客席に記念テレホンカードを持って走って、帽子を取り返していました(笑)。