昭和の芸能界、歌謡界の頂点に上り詰めたスターのそばには、いつも実力と情熱を持ったマネージャーがいました……。その1人が、沢田研二の全盛期を支え、吉川晃司を世に出した、森本精人(もりもと・よしひと)さんです。
このたび、ラジオ番組の公開収録にゲスト出演した渡辺プロダクションの名物マネージャー(現、株式会社メリーゴーランド会長)は、中将タカノリ(シンガーソングライター・音楽評論家)、橋本菜津美(シンガーソングライター・TikToker)とともに、濃密な昭和芸能トークを展開しました。
(※ラジオ関西『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』2023年9月10日放送回より。公開収録は、2023年8月21日に大阪・茶屋町のラピーヌ本店で実施。当時の模様の後編をお届けします)
【中将タカノリ(以下「中将」)】 前半では『時のすぎゆくままに』(1975)や『勝手にしやがれ』(1977)など1970年代の沢田さんについてお話しました。後半では1980年代の沢田さんや吉川晃司さんについてもお聞きしていきたいと思います。
【森本精人さん(以下「森本さん」)】 ジュリーの1980年代の始まりは『TOKIO』ですね。シングルは1980年1月1日発売です。しばらく阿久悠さん、大野克夫さんコンビの曲が続いた後だったので、加瀬邦彦さんがもう一度ロックなイメージでやりたいということで企画された曲でした。
当時、コピーライターとして注目されていた糸井重里さんに作詞をお願いしたところ、『バッド・チューニング』や『ミュータント』など20くらいのコピーができあがってきました。その中にあったのが『TOKIO』ですね。曲に負けないよう、衣装も電飾でパラシュートを背負うという大掛かりなもの。「もう一度ジュリーにレコード大賞を!」とスタッフ一丸になって頑張りました。
【橋本菜津美(以下「橋本」)】 えっ! パラシュートってどういうことですか?
【中将】 本当に空を飛べそうな大きさの赤白のパラシュートです。衣装というか、もはやセットみたいな規模ですよね。
【森本さん】 そのため、テレビではオープニングやCMの後など、準備時間があるタイミングでしか披露できませんでした(笑)。でも相当なインパクトがあったようで、後に『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)でビートたけしさんが演じたタケちゃんマンの衣装はそのまんま『TOKIO』の衣装のコピーですよね。
【橋本】 (笑)。もう沢田さんじゃなければカッコよく成立させられない衣装ですね!
【森本さん】 『TOKIO』にはこんな思い出もあります。ジュリーが日産・ブルーバードのCM撮りのためアメリカ・デスバレーに行っていたんですが、『ザ・ベストテン』(TBS)にランクインするということで急きょ僕もパラシュートをかついで後を追いかけたんです。向こうの税関で「なんだこれは?」と問い詰められて、とっさに「友人がパイロットになって結婚する。これは僕が作ってきたプレゼントなんだ」と嘘をついたら「ヴェリーグッド!」と喜んでくれまして(笑)。もし没収でもされたらとハラハラしました。
『ザ・ベストテン』の撮影でも、砂漠のど真ん中でヘリコプターを飛ばして空撮したところ、砂が舞い上がってとんでもないことになりまして……トラブルも含め、とても印象に残っている曲です(笑)。
【中将】 森本さんの努力が実って『TOKIO』は大ヒットになりましたが、このタイミングで長年沢田さんのバックを務めた井上堯之バンドが「もう付いていけない」と解散してしまいました。
【森本さん】 だってパラシュートでバンドが見えないですもん(笑)。井上さんからは「なんで僕たちここにいるの?」って何度も聞かれました。僕も何度も引き留めましたが、結果的にここで井上堯之バンドは解散になってしまいました。
逆に加瀬さんは「そろそろ若いバンドに変えたほうが」と言っていました。もっとジュリーも含めロックバンドみたいなイメージにしたほうがいいということでできたバックバンドがEXOTICSですね。
【中将】 バックバンドの交代でサウンド、ビジュアルともに80年代的な洗練されたスタイルへと置き換わっていきましたね。翌、1981年には沢田さんご自身が作曲した『ス・ト・リ・ッ・パー』がヒットして、加瀬さんの先見性が証明されたと思います。