尼崎市では、「山一抗争」の最中だった1985(昭和60)年、流れ弾で当時19歳の女性の命が奪われた。一人娘を失った母親の堀江ひとみさん(2012年死去)は、その後、暴力団追放運動に人生を捧げ、「暴力団被害救済基金」の設立などににつながっていく。
そして、尼崎市暴力団追放推進協議会が2023年1月、警察・行政・市民が一体となった情報共有や、暴力団の拠点を再び作らせないよう市暴力団排除条例の改正を求める要望書を松本真市長に提出した。松本市長も「仮に尼崎市が今後、警戒区域の指定から外れることになった場合、新たに暴力団事務所が進出することがないよう、排除に向けた継続的な取り組みが必要だ」との見方を示しており、今後具体化を進めるという。
こうして脈々と尼崎市の暴力団排除活動が受け継がれて進化し、次のステージへ向かっている。
これら一連の動きに関わるのが、垣添誠雄(もとお)弁護士。堀江さんが起こした民事訴訟で原告代理人を務めるなど昭和から平成、令和と時代をまたぎ、尼崎市の暴力団排除活動をサポートしている。垣添弁護士の存在を抜きにして、これらの活動は語れない。
稲村氏は「いろいろな問題を抱える人たちに、サポートや居場所がないのでは。社会に受け皿がないことが遠因ではないか」とみている。
そのうえで「新たな暴力団組員を生み出さない、ましてや今は『半グレ』と呼ばれる準暴力団の存在も深刻。必ずしも組織化されていないケースもあり、実態の把握は難しいが、犯罪に走らざるを得ない状況に追い込まれる人を減らす社会を目指すのためには、行政・警察・市民との協力体制を諦めてはいけない」と話す。
◆街の可能性、街の力
市長時代同様、笑顔を絶やさない。市長を退任した今思うことは、と尋ねた。「気力も体力もあったが、3期12年続けていると、ややもすると孤立したり、独善的になってしまうかも知れない。私たちが取り組む前にも、さまざまな取り組みがあったように、さまざまな施策で宿題が残っても、今後の取り組みの礎となるから」。
尼崎市長を退任して10か月あまり。「やればここまでできるんだという、大きな学びを得た。これぞ街の可能性、街の力と言うのでしょう」と満面の笑みで答えた。
ボランティアを通して政治への道に心が動いた28年前。単に誰かを助けるだけではなく、「次は自分が助けてもらう立場になるかも知れない」という考えが芽生えた。市長時代の最終章で知った市民との一体感。どれ一つ欠けてはいけない。キラキラ輝く瞳が、やり切った充実感を物語る。