劇作家・演出家 平田オリザさんのラジオ番組(ラジオ関西『平田オリザの舞台は但馬』)に、能楽師の安田登さんが2週にわたって出演。後半となる今回は、安田さんの著書を紐解きながら、現代人の“生きづらさ”に対するアプローチ法としての「古典」「演劇」について語った。
安田さんは以前、ひきこもりの人を対象としたワークショップを行っていたのだそう。ワークショップでは、アパルトヘイトが激しかった時代に“神”の存在を問うた『南アフリカにいます神』(アルバート・ノーラン著)のように、現代日本において“論語”は役に立つのかを問いながら、参加者とともに『論語』を読み進めたという。
「(ワークショップでは)『論語』の一節を読むのですが、孔子が生きていた時代と同じように読むんです。当時は、70パーセントが身体文字。たとえば、『學』という文字には、上にふたつの『手』があり、下に『子ども』がいる。そして、『メ』の部分には『まねをする』という意味がある。つまり、『手取り足取りまねをさせる』という意味なんです。『論語』を、“頭”で読まずに“身体”で読んでみたんです」(安田さん)
能楽の稽古に取り組むなかで、儒教の教えに救われることがあったという安田さん。師匠に叱られることも多く、大きな声で注意を受けると委縮してしまう自分がいた。ビクビクしてしまうのが“クセ”になっていたのだ。しかしあるとき、「師匠は大きな声を出しているだけだ」ということに気づいた。
『論語』には、「過(あやま)ちては即(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」という章句がある。「間違ったら素直に認めてすぐに訂正しなさい」と訳される言葉だが、もともとの漢字が指す意味は少々異なるという。
「『過』にはもともと善悪の判断はなく、AからBへと“通過”することで生じる『過剰』を意味している。同様に、指導することは問題ないが、声の大きさが『過剰』。その過剰さがうまくいかない原因なのであれば、『叱っているのではなく大きな声を出しているだけ』と変換してみる。つまり、“心のプログラミングを書き換える”のです」(安田さん)
平田さんもフリースクールで演劇を用いたワークショップを行う際、“自分の人体を意識化する”ことから始めるという。個性を知るためにも自分のクセを理解してもらうのだが、実は“自分の習慣に縛られている”ということに気づくのだそうだ。
ただ、日本人は“心のプログラミングを書き換える”のが苦手なようだ。これについて安田さんは、英訳することができない「あわい」という言葉を用いて解説した。
「『間』は『もともと空いている場所』を意味する。そして、『あわい』は『あわさっている場所』を指す。日本人は縁側のような内と外があわさっている場所が好きな民族で、どこかに属するとみんな『あわい』になってしまって、会社をクビになったりすると自分の一部がそぎ落とされてしまうような感覚になる」(安田さん)
日本人特有の、いつの間にか主体性を失いがちになる民族の習性を指摘した。