最大震度7を観測した石川県・能登半島地震。被災範囲は富山県、新潟県にも及び、被害実態の把握が困難を極めている。
発生当日、石川県輪島市へ向かった兵庫県警・広域緊急援助隊のメンバー2人(4日まで現地で活動)が12日、活動報告した。
ラジオ関西トピックス「ラジトピ」では、メンバーの活動報告を前編・後編の2回に分けて送る。
(※記事中画像は兵庫県警・災害対策課提供)
1日夜に出発した兵庫県警・広域緊急援助隊が輪島市内に入ったのは、発災翌日・2日の午前5時半。
現場近くの道路が寸断され、部隊は陸上自衛隊・小松基地(石川県小松市)からヘリコプターで移動した。ヘリの窓から見た輪島市内は、煙と炎に包まれていた。
同日午前7時半から救助活動を始めた。2日は倒壊家屋から3人救出、3日は倒壊した鳥居の下から1人救出(いずれも死亡)。
別の現場で安否確認中、集合住宅内で閉じ込められた高齢夫婦を発見、救急搬送し、一命は取り留めた。
余震が続く中、救助活動は緊張の連続だった。6人を救出したが、生存者は2人だった。広域緊急援助隊・中隊長、深田真輔警部(45)は、「人力だけでは、これ以上の活動は難しい」と判断する現場もあり、悔しい気持ちを抱えながら次の現場へ移った。
被災地について全く情報がない中での救助、灯りもない。何もない中で救助拠点を設けた。「倒壊家屋の下には家族が…」。とにかく救出するしかない。阪神・淡路大震災当時17歳だった深田さんにとって、報道映像などで見た様子と目の前の輪島市の今が重なった。本当に厳しい状況だと思い知らされた。
余震の中の救出活動、一番重要なのは「二次被害の防止」だ。特に4日に起きた震度5の揺れで、本震で傾いた建物がさらに傾く様子を目にし、非常に危険な状況にさられていた。
深田さんは「29年前、阪神・淡路大震災が発生した際には、全国から救助の手を差し伸べてもらった。その恩は返さなければ」という思いで災害対応している。元日であっても関係なく、仲間の参集は早く、当日午後7時30分には兵庫を出発していたことが頼もしかった。
しかし現場でつらかったのは、助けを求める声をかけられても手が回らなかったことだ。陸路を使えず、ヘリでの現地入りだったため、資機材は最小限だった。木造住宅の柱などを切断するのも道具を使えず手作業だったため、限界があった。家族に「申し訳ない」と告げて、次の現場に移動したことがとても悔しかったという。
兵庫に戻って思うことは、「隊員は全力を尽くしたが、被災地はまだまだ厳しい状況にある。今度は私たちの番。何度でも被災地に向かいたい」そのことに尽きるという。