兵庫県立歴史博物館では4月6日(土)~7月7日(日)、1階ギャラリーの無料ゾーンで手紙を一般公開する予定。前田学芸員は「三木合戦の具体像を検討していく上でも重要な発見。別所氏離反時の秀吉の言い訳の中に、別所方の城を廃城にすること(城割=しろわり)を巡る問題が挙げられている。今後の重要な研究材料になるだろう」と話している。
◇三木合戦とは
1577年、織田信長による中国地方攻略の担当者として秀吉が播磨(兵庫県南西部)に侵攻。別所氏をはじめとする同地域の豪族らは当初従う姿勢を見せるが、その後翻意。1578年、秀吉軍が別所氏のいる三木城(兵庫県三木市)を包囲して兵糧攻めを行い、2年弱にわたる籠城戦で多数の餓死者が出た。1580年、城主別所長治以下一族が自害、戦いは終わった。