《JR福知山線脱線事故19年》「ようやく芽吹く、恩送り」負傷者と家族を支えて 三井ハルコさん | ラジトピ ラジオ関西トピックス

《JR福知山線脱線事故19年》「ようやく芽吹く、恩送り」負傷者と家族を支えて 三井ハルコさん

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 乗客106人が亡くなり、562人が重軽傷を負ったJR福知山線脱線事故は4月25日、発生から19年を迎えた。この事故で、当時大学生だった次女が重傷を負った三井ハルコさん(兵庫県川西市)がラジオ関西の取材に対し、「次世代に何を語り継ぎ、伝えるか」を語った。

「事故の真実を伝えること」の重要性を語る三井ハルコさん<2024年4月16日 兵庫県川西市>

 三井さんをはじめ、事故の負傷者と家族らの有志は、事故から約2か月経った2005年6月、思いを話し、共有する「語りあい、分かちあいのつどい」をスタートさせた。
 そして事故の2年後、2007年7月から「補償交渉を考える勉強会」を開催。その後、補償(賠償)交渉などが個別では対処しきれなくなったため、2008年2月に「JR福知山線事故・負傷者と家族等の会」を設立した。また負傷者やその家族らの「空色の会」も生まれた。

 この19年間、心が折れそうになったことは何度もあった。あくまでも事故現場にいたのは次女であり、自身はあの場にはいなかった。「当事者ではないが、負傷した家族としての立ち位置」はどうあるべきかを問い続けている。

「事故の教訓をどう伝えるか、負傷者と家族の何を伝えるか」。19年という月日は、それを精査することの重要性を与えてくれた。事故を知らない世代にも、心の片隅に留めてほしい、風化していく流れをどう緩めていくのかを考えている。

国土交通省・被害者対策室担当者を交えた意見交換会<2023年11月4日>
毎年、こうした取り組みの中で被害者ならではの「気づき」や「新たなハードル」を見出していく

 「安心・安全な社会は、人任せでは成立しない」。これは三井さんが訴え続けているテーマだ。「この事故をめぐっては、専門家も、遺族も、負傷者も、加害企業であるJR西日本も、それぞれの立場で発信すべきものがある」という考えは変わらない。

 しかし、時間がすべてを解決してくれるわけではない。事故によって一度壊れた心、傷んだ身体は、そう簡単に元に戻らない。むしろ目に見えぬ“しこり”、無言の“苦しみ”として、重くのしかかる。

 だからこそ、三井さんは次女と事故の話を持ち出さないようにしている。昨今議論されている、事故車両のあり方については特にそうだ。
 1985年に起きた日本航空ジャンボ機墜落事故は、JR福知山線脱線事故と同じく、人々の安全神話を根底から覆した大惨事だった。羽田空港の日航安全啓発センターで見た事故機体は、あまりにもインパクトが大きかった。
 機体を見ることは、社会的な出来事として、安全への意識を喚起させるには“語る教科書”になり得るかも知れないが、その車両を目にすることによって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人もいる。拙速に進めるものではなく、議論を尽くすことが重要だと三井さんは話す。

事故現場を整備した慰霊施設「祈りの杜」を訪れた三井さんと次女<2023年4月>

 日航ジャンボ機事故をめぐっては、事故の教訓を伝えるため、羽田空港にある日航の社員研修施設「安全啓発センター」で事故機体の一部や乗客の遺品が展示されている。それは事故から21年後のことだった。
 JR西日本は、社員研修センター(大阪府吹田市)の敷地内に整備し、2025年度中に完成する見通しだ。社員教育の一環として、事故車両を保存することを検討しているが、一般公開については、「車両を直視することができない」という遺族の意見を踏まえて展示方法を見直すなどしており、これからの課題となっている。

 最も恐れるべきは、無関心。特に今年は、元日から能登半島地震が起き、海外でも戦乱が収まらない。さまざまな問題が国内外を取り巻いている。
 こうした中、三井さんは感覚が鈍麻(どんま)してしまい、世の中の出来事に何も感じなくなることの恐ろしさを危惧している。

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