フリーキャスターの丸岡いずみさんが、29日放送のラジオ関西の番組『としちゃん・大貴のええやんカー!やってみよう!!』にゲスト出演。番組パーソナリティーを務めるフリーアナウンサーの田中大貴さんとともに、局アナ新人時代の秘話や、ラジオへの思いなどを語り合いました。
徳島県出身の丸岡さんがメディアの世界に初めて飛び込んだのは、1994年、北海道文化放送にアナウンサーとして入社したときでした。
ただし、同局に入るまではアナウンサーになるための練習なども特に受けていなかったそう。出身地である徳島県の阿波弁が抜けず、兵庫・西宮の関西学院大学に通って関西弁が飛び交う環境にいたこともあり、「ぐちゃぐちゃのよくわからないような感じで、絶対にイントネーションは東京弁じゃないというパターンのしゃべり方だった」。そのため、新人アナウンサー時代は大変苦労したといいます。
それは、兵庫県出身、慶応義塾大学の野球部4番打者からフジテレビアナウンサーという道に進んだ田中さんも同じだったそう。アナウンサーのイロハを局アナになるまで知らなかった2人は、「入った後に地獄を見たタイプ」と、丸岡さんは吐露します。
イントネーションの矯正など、厳しいアナウンス研修を受けていたときには、「すぐやめよう、絶対無理だと思った」と、丸岡さん。
その思いに田中さんも同意。「泣いてましたね。『無理だ、来てはいけない世界だな』と思った」と、標準語を叩き込む過酷さに悲鳴をあげていたそう。「アナウンス室で電話を取るのがルーキーの仕事だが、そのときのイントネーションを間違えただけでも注意を受ける……電話番号の数字のイントネーションも間違えたらダメ。『アクセントって、どうだったかな』と、言語イップスになりそうだった」と当時を振り返ります。
そんなときに、地元の友人らと話してしまうと、途端に関西弁などに戻ってしまうもの。そのため、「新人の頃、例えば本番前は、両親や友だちと電話で話さないっていうのは、あるあるです」と、丸岡さん。それでも、二人とも、「実家に帰ると一瞬にして(言葉が)戻る」「(生まれ育った言葉の)スイッチが入る」と、気の許せる場ではつい地が出てしまっていたようです。