今年4月、多目的アリーナ「GLION ARENA KOBE(ジーライオンアリーナ神戸)」を中心とした新たなランドマーク「TOTTEI(トッテイ)」がオープンし、にぎわいを見せる、神戸港ウォーターフロントエリア。その歴史を探訪するとともに、このたび、TOTTEIのある新港町で行われた歴史的な発掘にスポットを当てます。
奈良時代より、現在の兵庫港を中心として栄えてきた神戸港。当時は“大輪田の泊”や“兵庫津”と呼ばれ、平安時代には、平清盛が中国・宋との貿易を盛んにすることを目的に改修を行ったとされています。その後、江戸時代には人口2万人にも上る港湾都市へと発展しました。
今回、発掘調査が行われたのは、これまでにあまり記録が見つかっていないエリア。江戸時代の絵図には、生田川が運んだ土砂が造った砂嘴(さし=細長い砂丘)と、その内側には入江が描かれています。
同エリアには、江戸時代の終わりに入江を利用した「船たで場(船の修理場所)」が建設され、さらにその後、大阪湾の巡視に訪れた将軍に同行した勝海舟の進言によって「海軍操練所」が建設されました。海軍操練所とは、海軍士官の養成所であり、蒸気船の造船や修理、燃料の補給基地となる場所でした。
このため、現在も「海軍操練所跡地」と記された、いかりのモニュメントが残っています。



このたびの発掘調査は、ジーライオンアリーナ神戸など神戸のウォーターフロント開発事業の一環で行われ、古地図によってこのあたりではないかと思われていた海軍操練所跡の防波堤と、その上に明治時代の防波堤が発見されました。

今回の調査によって発見された、海軍操練所のものと考えられる防波堤。これを利用して明治時代の防波堤が造られたことで、明治時代の開港とともに神戸の近代化が一気に進んだことが判明しました。幕末期の防波堤が近代化の礎となっていることが明らかになったことが、今回の発掘調査の重要な成果だそうです。
幕末期の防波堤を基にして造られた明治時代の防波堤のほかに、灯台(灯標)の痕跡も確認できるそうで、保存した遺構は今後一般向けに公開することが検討されているとのことです。





