兵庫県にある日本遺産『銀の馬車道・鉱石の道』。日本の近代化の象徴とされるこの道は、実際はどのようなものだったのでしょうか? 播磨学研究所名誉所長の中元孝迪さんに話を聞きました。
『銀の馬車道・鉱石の道』とは、播磨地域を通る『銀の馬車道』と但馬地域を通る『鉱石の道』の2つのルートを指します。これらは、いつ、どのような目的で作られたのでしょうか?
中元さんによると、銀の馬車道の正式名称は『生野鉱山寮馬車道』というのだそう。生野鉱山で使う大型機械や、鉱山で採掘された鉱物を運ぶために作られた道路で、生野鉱山から当時の飾磨津(現在の姫路港)まで、約49キロメートルを結んでいたといいます。
それまで人力に頼って運搬していた物資を馬車という新しい手段で輸送できるようにした画期的な道路で、1873(明治6)年の着工から、完成までに3年を要しました。当時は馬車のみが通行を許されており、周辺住民は利用できなかったそうです。
こうした背景から、銀の馬車道は『日本初の高速産業道路』とも呼ばれているそうで、中元さんは「いまでいう高速道路のようなものですね」と語ります。
建設はフランス人技師たちとの協力のもと進められたそうで、当時の日本にとっては一大プロジェクト。沿線では、いまも当時の面影を感じることができるのだとか。
中元さんは、このように解説します。
「お雇い外国人やその家族との交流により、欧米の新しい文化が持ち込まれた生野は活気あふれるまちになりました。沿線に自生していた野ばらはフランスで改良され、新たなバラが誕生。いまも、両国で多くの愛好家に親しまれています」(中元さん)
現在、一部区間では『銀の馬車道』が現存しており、サイクリングなどで実際に走ることが可能。兵庫県はサイクリングモデルルートを設定しており、さまざまなイベントも開催されています。

生野鉱山から中瀬鉱山へと伸びる『鉱石の道』は、西洋の進んだ技術を取り入れた近代化の象徴とされ、現在も貴重な景観が保存されています。