そして2026年1月現在、被災した地域、マンダレーやザガインなどは、がれきの撤去が終わり、空き地が多くなった。河野さんは「市場がつぶれた所は、もともとあった建物の前の路上に市場ができていて、人々はそこで買い物をしている。学校は仮設校舎をみんなで使いまわしている。空き地を見なければ、地震前と同じような日常が戻ってきていると感じる。もちろん仮住まいの人や困っている人はいると思う。でも街を見たら活気が戻っているように見える」と話す。
ミャンマーでは、医療者の数が少なく、そのほとんどが都市部の大病院に集中している。地方や農村部には医師が常駐していない所も多く、看護師やコミュニティヘルスワーカーなどが医療の担い手となっている。河野さんは「ザガインでは、地震に関係なく医療を求める人が多い。公立病院はあるが機能しておらず、治安もよくないので、医療を受けたくても難しいという状況。国の情勢や変化によって医療へのアクセスが制限されている」と話す。そのような環境で医療支援を行っている。
現地スタッフにとっても状況は厳しい。河野さんは「治安の悪い中、安全を確保しながら働いてもらう、医療にアクセスできる人達を増やせるような工夫をすることも考えないといけない。常に治安の状況を見ながらスタッフと相談しながら考える。(医療支援を)やめてしまうとその後患者は来なくなる。できるだけやめないことが重要」と話す。

時に患者は、通信状況がよくない中、治安もよくない中、何日もかけて病院に来ることがある。「だから、私達(日本人)も、現場に入るのは危ないと思っても、例えば3日間の活動予定が1日になってもやめずに活動する。病院に来られない人には、待っていても仕方ないので、地域の寺子屋や高齢者施設などこちらから出ていく」と河野さん。また地方の病院の設備では対応できないこともある。「大きな手術、例えばこどものがんの手術はなかなかできない。その場合はヤンゴンやマンダレーといった大都市のこども病院に重症の患者を集め、日本から専門医に来てもらい手術をする。自分たちの拠点で待っているだけではなく、日本の医療チームにできることはないか、常にさがしています」。
できることはないか、常にさがす。その姿勢の背景には河野さんの学生時代の経験がある。河野さんは大学1年生の時に、加古川で阪神・淡路大震災を経験した。「大学は休校になり、先生方は資格もあるので避難所で活動されていた。看護師を目指すものとして何かしたいという思いはあったが、どこへ行って何をすればいいのかわからなかった。当時は災害ボランティア(という制度)もない頃で、避難所になった中学校へ行き、支援物資の仕分けをしていた。でも何もできなかったという無力感のようなものが残った。その経験が生きたというより、あんな無力感を味わいたくない。ミャンマーでは軍政がどのように出てくるのかわからない、被災地で活動できるかもわからないけど、まずは行ってできることを探してやってみる。ここに繋がっていると思います」。
今後の活動について、河野さんは次のように話す。「まずはザガインの拠点病院での活動を続けていきたい。また全国に医療が受けられない人が多くいるというのはわかっているので、地方のこども病院など専門病院に日本人の医療者と共に入り、活動を続けていく。命に直結するような人達をひとりでも多く救っていけるように、ひとりでも多くの人に医療を届けられるように、いい形を探しながら挑戦してやっていきたい」と前を向く。





