江戸時代初期・寛永時代(1624~1644年)。
大坂夏の陣から10年あまりが過ぎ、争いの絶えなかった日本に平和な時代が訪れた。三代将軍・徳川家光の治世に、太平の基盤が確立された。
寛永とは「寛容な世の中が永らえるように」という意味を持つ。

武家諸法度の制定や鎖国の完成といった強固な幕藩体制が築かれる一方で、京都を中心に独自の華やかな寛永文化が花開き、「もはや戦いの世ではない」という時代に、商人や町衆が文化を支えた。

その時代を象徴する饗宴が1626(寛永3)年9月に催された。
徳川幕府が後水尾天皇を二条城に招き、5日間にわたり、 贅を尽くした食や舞楽、 蹴鞠 、和歌の会や能楽でもてなした江戸時代最大級の行事「寛永行幸」。

1620年に徳川家二代将軍・秀忠の娘・和子が後水尾天皇に嫁ぎ、23年には和子の兄にあたる家光が三代将軍に就いた。行幸は朝廷との関係をさらに強化し、威信を示すために計画され、 幕府と朝廷の融和(公武融和)を象徴する一大イベントだった。
家光の先導で全国の大名らが追従し、「一日晴(いちにちばれ)」と呼ばれる特別な衣装をあつらえて行列に臨んだ。

二条城では行幸を機に、天皇が滞在するための御殿が新造され、現在の国宝・二の丸御殿の諸殿もこの時期に大きく整備された。狩野派の障壁画や黄金の調度品で極限まで美しく飾られ、小堀遠州が手掛けた二の丸庭園も鑑賞用に大改修された。
この「寛永の大改修」には2年の歳月を費やしたという。
寛永行幸によって公武融和の城となった二条城は、のちに徳川慶喜による大政奉還で、徳川幕府の始まりと終わりの舞台となり、その後の離宮時代には大正天皇の饗宴の儀など、日本の歴史を見届けてきた。







