「父は神戸が大好きだった」 水木しげるさんの長女が逸話披露 神戸ファッション美術館「魂の漫画展」

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 第1章では少年時代の境港の風景や、甲子園口時代の絵、西宮北口を描いたスケッチなども並ぶ。注目の1つは、少年時代の絵だ。10代後半に描いた絵巻物のような体裁の虫の絵には、虫をデフォルメ、時に擬人化したユーモラスな表現が見られる。妖怪画家として知られる水木の後年の画風とは異なる、若き日の「絵を描くことが好きな少年」の姿が浮かび上がる。

 続く第2章「水木しげる漫画研究」では、紙芝居から貸本漫画、そして雑誌漫画へと進んだ創作の道のりを探る。紙芝居が衰退すると、水木は貸本漫画の世界へ入り、その後東京へ移る。展覧会では、その頃のスケジュール帳や描き損じの原稿、アイデアを書き留めた紙など、漫画家の頭の中をのぞき見るような貴重な資料が公開されている。水木さんは写真を大量に撮影、背景として使えるものを選び、アシスタントに描画を依頼。その背景画を作品に取り入れていた。緻密な背景描写を可能にしたのは、こうした独自の制作方法だった。

あらかじめストックされていた緻密な背景画(C)水木プロダクション

 第3章は、「鬼太郎」「悪魔くん」「河童の三平」という代表的な3作品を取り上げる。「鬼太郎」は紙芝居から始まり、貸本漫画を経て雑誌へと発展した。「悪魔くん」も貸本漫画からスタートし、後に少年漫画誌へと舞台を広げた。原口さんによると水木さんが1番好きだった自身の作品は「のほほんとした世界観が魅力」の「河童の三平」だったという。

『ゲゲゲの鬼太郎』の展示(C)水木プロダクション
『悪魔くん 妖怪大襲来』 1986年(C) 水木プロダクション

 代表作の1つである「総員玉砕せよ!」は、第4章で特集。水木さんの人生を語る上で避けて通れない戦争に焦点を当てる。戦地で左腕を失った水木さんは、自身が所属していた部隊に起きた悲劇を戦後になって知った。玉砕命令を受けた部隊で、生き残った兵士たちが再び死地へ送られるという出来事だった。自らは負傷によって玉砕に参加しなかったものの、親しくしていた戦友たちを失った。その思いを「描き残さなくてはいけない」という強い衝動が、「総員玉砕せよ!」につながった。水木さんは同作について「何も意識しないで右手が勝手に動いた。あの島で死んでいった戦友が書かせたんだね」「戦争を体験した漫画家として残さなければならない仕事だと思った」との言葉を残している。同章では、慰問袋に入っていたクレヨンで戦時中に描いた絵なども展示。「父は晩年になって、戦争についてポツポツと話してくれた」と、原口さん。「作品には、戦争で誰にも語ることもできず、誰にも見られることもなく、死んでいった様子が描かれている。そのシーンをパネル展示しているので、ぜひ見てほしい」。

展示風景(C)水木プロダクション

 第5章「溢れる好奇心 人物伝」、第6章「短編に宿る時代へのまなざし」を経て、第7章では妖怪画家としての水木さんに迫る。水木さんは「妖怪を自分で創作する」ことを好まず、昔の人々が感じ、語り継いできた妖怪を描こうとした。少年漫画の連載を抱えながら、週末になるとアシスタントとともに古書店を回り、妖怪に関する古い文献を探したという。鳥山石燕の絵や柳田國男の伝承などを参考にしながら、絵が残っている場合は、それを尊重して描く。一方、伝承だけが残っているものについては、自身が姿を想像した。そして妖怪だけでなく、それを見て驚く人々や古い家屋、周囲の風景まで描き込むことで、「そこに妖怪がいる」という存在感を生み出した。原口さんは、そうした父の姿を「民俗学者のような側面もあったのかもしれない」と話す。同章で展示した妖怪画は、あえてモノクロ作品を中心に構成したという。墨汁で描かれた線には、筆圧や息遣いが感じられ、カラー作品とはまた違う、原画ならではの迫力がある。

第7章「妖怪世界へようこそ」(C)水木プロダクション
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