◆「田辺眞人のラジオレクチャー」
12月3日は、鉄砲鍛冶師で発明家の国友一貫斎(くにとも・いっかんさい、9代目国友藤兵衛、1778—1840)の命日です。彼が生まれた1778年は田沼意次の時代。その後の寛政の改革、天保の改革を生き、亡くなった1840年は、坂本龍馬が5歳(※1)、13年後にペリーが黒船で浦賀にやって来る、そんな時代の人です。
琵琶湖東岸、滋賀県米原市に接する滋賀県長浜市。その「国友」という土地が、かつて鉄砲の産地だったことは知る人ぞ知るところです。
日本に鉄砲が伝来したのは1543年。(この6年後にフランシスコ・ザビエルが日本に来ますが、彼の命日も「12月3日(※2)」です)。種子島に外国の船が漂着し、初めて見た異国の人に種子島の住民はさぞかし驚いたことでしょう。言葉は全く通じませんが、幸いなことに中国人が乗っていて、砂浜で筆談をしたことが最近になって分かりました。
異国の人が持っていた長い筒が、雷のような大きな音を出し、遠くの生き物が倒れるのを見て、島主の種子島時堯(たねがしま・ときたか)は衝撃を受けます。時は戦国時代、高額な鉄砲を2丁購入して、1丁は自分の職人に同じものを作らせ、1丁は薩摩の島津家にプレゼントしました。この時、もし島津家が先を読めていたら鹿児島で増産して天下統一ができたかもしれませんが、島津は将軍家に献上。足利将軍は刀鍛冶の村で有名な国友に、同じものを作らせました。
国友村は、素晴らしい技術を駆使してあっという間に同じものを作りましたが、最後まで悩んだのが筒の手前の栓です。単に蓋をしただけでは、火薬の爆発力に耐えられません。ここで初めて、日本になかったネジの文化が誕生するわけです。
瀬戸で量産した焼き物を「瀬戸物」と呼ぶように、鉄砲は「種子島」と呼ばれ、また当時は「国友鉄砲」とも言われていました。そして、鉄砲に目をつけた堺の商人が種子島に産業スパイを送り込み、技術を堺に持ち帰って、堺でも生産するのです。
日本の3つの鉄砲産地のうち、織田信長は近江の国友と泉州の堺の領地を押さえ、鉄砲を数多く手にすることに成功。これが信長の軍事的強みのひとつの源です。