「彼(加害者の男性)への矯正教育は、まったく無意味だった」。
1997年、世間を震撼させた神戸連続児童殺傷事件の加害者の男性が、事件にいたる経緯、医療少年院を経て社会復帰への過程を綴り、事前に遺族へ何の断りもなく”元少年A”の名義で出版された手記「絶歌」。7年前のことだ。
土師 守さん。1997(平成9)年5月24日、この事件で次男・淳君(当時11歳)を失った。ラジオ関西の取材に、冒頭の言葉を口にするようになったのが2015年6月、事件から18年が経過し、この手記が世に出た時だった。憤りは計り知れない。事件から25年になるのに合わせ、守さんが改めて取材に応じた。
事件発生からしばらくの間は、本当に精神的にも肉体的にも厳しい期間が続いた。自宅には多くの報道陣が詰めかけ、常に監視されているような状態だった。
家族を失い、悲しみに暮れる守さんら遺族に襲い掛かる「メディア・スクラム」。それから25年、守さんは「とてもひと言で表現できるような歳月ではなかった。嵐のような25年だった」と振り返る。放射線科医師の守さんは、長年勤務していた病院を2020年3月に退職した後も、医療に携わりたいとの思いで臨床医を続けている。
「ある程度の期間が経過することで、私たち家族の生活は落ち着いてきたが、亡くなった次男(淳君)への想いは、今も変わることはない」。
今でも目に浮かぶ淳君は「純粋な」子ども。日常生活で、笑ったり、泣いたり、怒ったり…これが幸せな状況だったのだろう、と今も思う。墓参は「子ども(淳君)のことを考え、見つめ直す時間」。手を合わせ、淳君と向き合う。
加害者の男性は2004年に医療少年院を仮退院した。しかし2015年に「元少年A」として手記「絶歌」を出版、物議をかもした。 男性は自らの近況を知らせる手紙を守さんのもとに届けていたのだが、手記の出版に強く憤り、抗議した守さんは2016、2017年は手紙の受け取りを拒否した。そして2018年から手紙は途絶えた。
守さんは、それまで「少しずつ、自分のしたことに向き合っているような印象を受けた」と語っていた。男性にとって、一定の更生がなされたのかも知れないと思った矢先の出版だった。
「手記の出版は、私たちに対する、精神的苦痛を与えた傷害罪。制限のない自由はあり得ない」と淡々と語る守さんの眼差しは険しい。男性に施した矯正教育は何だったのか…。冒頭の言葉がすべてを表している。
事件から25年経った今年も、男性からの手紙は届いていない。
以前から守さんは「なぜ、加害者の男性に私たちの次男の命が奪われなければいけなかったのか、という問題について真の解答を求め続けている。彼には、私たちの問いに対して答える義務があると考えている。そのためには、加害男性が自らが犯した残忍な犯罪に向き合い、真実を導き出す必要がある。”手紙を書く”という行為によって、遺族の思いに答える努力をしてほしい」と訴える。
■少年法改正「権利と責任、表裏一体」