フォークソングと言えば吉田拓郎さんの「結婚しようよ」(1972)のような牧歌的な曲や、かぐや姫「神田川」(1973)のような四畳半の風景を思い浮かべる人が多いかもしれません。ですが、そもそも日本でフォークが大きく注目されたのは反戦歌、メッセージソングとしての側面でした。今回はそんなポップス化以前のフォークについて、シンガーソングライター・音楽評論家の中将タカノリと、シンガーソングライター・TikTokerの橋本菜津美が紹介します。
【中将タカノリ(以下「中将」)】 日本のフォークは1960年代半ばにカレッジ・フォークと呼ばれるポップなスタイルから始まりました。それがボブ・ディランや当時の学生運動の影響を受けて次第にメッセージ性、政治色をおびたアンダーグラウンドなものに変化。1970年代以降に吉田拓郎さんらによって再びポップス化していくんだけど、今回はその“ポップじゃなかった時期”のフォークについて紹介していきたいと思います。
【橋本菜津美(以下「橋本」)】 私の中では「フォーク=四畳半」なんですが、それともまた違うんですか?
【中将】 「神田川」みたいに恋愛や私生活を歌った四畳半フォークはすでにポップス化した後のものなんです。今回ご紹介するのはもっと荒々しかったり、強烈な個性をおびた曲たちなんですが、そういったスタイルが流行するきっかけになったのが京都出身のザ・フォーク・クルセイダーズでした。彼らのデビュー曲は「帰って来たヨッパライ」(1967)。
【橋本】 すごいクセのある曲です! めちゃくちゃ耳に残ります……。
【中将】 実はこの曲、この番組(※ラジオ関西『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』)をオンエアしているラジオ関西がヒットのきっかけになりました。ザ・フォーク・クルセイダーズが、かつて放送された深夜番組『CRミッドナイトフォーク』に出演し、その後スタートした『若さでアタック』で「帰って来たヨッパライ」が放送されると大きな反響を呼び、「電リク」(電話リクエスト)が人気を押し上げました。
テープの回転数を上げて、あえてコミカルな声質で「天国よいとこ一度はおいで 酒はうまいしねえちゃんはきれいだ」とバチあたりな歌詞を歌っているわけですが、この斜め上な発想力と、当時の彼らの反権力思想、反戦思想はラジオなどのメディアを通して多くの若者に受け入れられました。
【橋本】 フォーク・クルセイダーズって「イムジン河」などもそうですよね。きれいな曲から個性的な曲まで作風が幅広すぎます!
【中将】 音楽や歌詞はとても洗練されてるんだけど、テーマが鋭いんですよね。彼らの活躍は同じ関西のミュージシャンたちに大きく影響し、1960年代末から1970年代初頭にかけて「関西フォーク」と呼ばれるシーンが盛り上がっていきます。いろんな方がいるのですが、やっぱり代表格は“フォークの神様”と呼ばれた岡林信康さんでしょうか。「山谷ブルース」(1968)をお聴きください。
【橋本】 これはこれですごいフォークみを感じますね! 貧乏くさい!
【中将】 山谷(東京都台東区)は関西でいうところのあいりん地区(大阪市西成区)みたいな日雇い労働者の街ですが、そこに集う労働者を主人公にした曲ですね。
岡林さんは牧師だったお父さんの影響で熱心なキリスト教徒として育ち、同志社大学神学部に進学までするんですが、やがて宗教に疑問を感じたのか社会主義運動に参加するようになります。そして高石ともやさんらに触発され歌い始めるわけですが、テーマは当時タブーとされた差別問題や天皇制批判にまでおよび、大きな反響をもたらします。
【橋本】 なるほど……! 宗教についてしっかり勉強したからこそ反対の思想に行き着いたんでしょうか。
【中将】 当時の大学生の間で流行した社会主義思想は「モラトリアムの産物」みたいな感じで批判されがちですが、実際に強烈な社会矛盾が残っていた時代なので、岡林さんはそこに着目したわけですね。1960年代から1970年代にかけては若者が社会に対し怒っていた時代だったわけです。次にお届けするのも強烈な怒りの曲です。泉谷しげるさんで「黒いカバン」(1972)。