日本パラ水泳連盟のアスリート委員を務め、若手の育成にも携わりながら現役選手としてもパラリンピックを目指すパラスイマー・久保大樹が、4月8日放送のラジオ番組『アスカツ!』(ラジオ関西)に出演。自身の今までとこれからについて語った。
幼少期に競泳を始め、当時の目標は水泳のオリンピック選手。日本体育大学では水泳部主将を務め、インターハイでは400メートルメドレーリレー優勝、2008年には北京オリンピックの選考会に出場するなど数々の好成績を残してきた。卒業後は水泳を引退し体育教師となるが、24歳のときに神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。両手足に麻痺が残るなか、パラリンピック水泳選手となった。
発症した日のことは鮮明に覚えているという。
「授業をしていたときにちょっと右手が動きにくいなと思って……。それがだんだん足にきて。6時間目の授業では利き手でチョークが持てなくなっていて、生徒から『先生これもうあかんやん』と言われて病院に行きました。当然緊急入院で、次の日にはもう首から下が全く動かなくなった。そこから半年間のリハビリでした」(久保)
今後はもちろん、病気が治るのかどうかもわからなかった当時について「まったく光のないところにいた。暗闇のトンネルをただひたすら走っている感覚だった」と振り返った久保は、さらにこのように続けた。
「仕事もできなくなって、目標とかやりたいこともなくて。ただただリハビリだけをする毎日。『何かしたいな』と思うんですけど、体が動かない。本当に苦しかった」(久保)
失意のどん底ともいえる状況から、パラリンピック出場を目指すことになったきっかけは何だったのか。
「たまたま大阪でパラ水泳の大会があって、見に行ったら自分よりも障がいの重たい人がスポーツ(水泳)をしていて。アスリートである姿に感動して『これやったらできるかも』というところから始めました」(久保)
水泳を再開し、そこで出会う仲間たちからたくさんの刺激を受けた久保。当初は障がいをネガティブに捉えていたが、仲間たちの姿を目にするうちに「みんな普通に一人暮らししてるし、普通に結婚してる。遠征にも1人で行く。そういう姿を見たときに『障がいって別に暗くないやん。全然普通やん』と思った」と、心境の変化が生まれたという。
不安や葛藤を抱えていた久保の世界は、そこから大きく変わった。
パラ水泳を始めてから初めて挑んだアジアパラ競技大会(2018年)では100メートルバタフライ、400メートルリレーの2冠を達成。その後も数々の大会で活躍し、目標は「パラリンピック出場」に定まった。そんな久保に思いもよらない出来事が……。
東京パラリンピックの代表内定が、直前のクラス変更に伴い取り消しとなってしまったのだ。
パラ水泳には「クラス分け」があり、肢体不自由者においては1~10にカテゴリーが分けられているという(数字が小さいほうが障がいは重度)。
「内定の段階では9だったが、最後に障がいのチェックが残っていた。チェックというのは免許更新みたいなもの。僕の障がいは麻痺程度がその都度変わるので、何年かに1度チェックがいるんです。新型コロナウイルスの影響でそのチェックに行けていなくて、結局2021年に出た内定後に受けたチェックでは判定が9から10に変わって。(その結果)パラリンピックに出られなくなった」(久保)
またしてもどん底を味わった久保。当時の心境について、このように語った。
「普通に考えると、障がいが軽くなっているのはうれしいことじゃないですか? でもやっぱりそうは考えられない。『そんなに状態変わってないやん』とかも思うんですけど……。出場できないという事実は決まってしまったので、本当につらかったですね」(久保)
しかし、マイナスなことばかりではなかった。