皇室ゆかりの京都・曼殊院門跡(京都市左京区一乗寺)で明治初期に姿を消した 「宸殿(しんでん)」が2022年10月、150年ぶりに再建された。
曼殊院は 代々皇族や公家が住職を務めてきた天台宗の京都・五ケ室門跡(※)の一つ。最澄が比叡山上に建立した 坊を洛中(現在の京都市街地)に移設、明暦2(1656)年、現在地に移された。この地で建物や庭園が整備される。明治維新までの約900年間北野天満宮の管理職(別当)も兼務していた。
宸殿は境内の中で最も格式が高く、 縁のある天皇や歴代門跡の位牌などを安置する 門跡寺院特有の建物だが、 1872(明治5)年、 京都療病院 (現・京都府立医科大付属病院)の建設のため、明治政府に上納された。
曼殊院の宸殿は解体され、療病院の建築材として用いられたが、当時の様子を示すものは、江戸時代に描かれた「都名所図絵」ぐらいにしか残されていないという。
宸殿の前庭は「盲亀浮木之庭」と呼ばれる。大海に住む、盲目の亀が、100年に一度息継ぎのために頭を出し、そこへ風に流されて来た節穴のある木片の穴に、偶然頭がすっぽりはまる様子を表現している。
これは仏教にめぐり合うこと、人間に生まれることは、それほど難しいのだということを表している。
再建するにも財政的に厳しく、明治時代には 新政府の神道国教化政策による仏教排斥運動「廃仏毀釈」により、声を上げにくい時代となり、曼殊院では宸殿の復興が歴代門主にとっての悲願だったという。
再建資金を集めるために全国行脚する中、1人の女性が2011年の春、自らの退職金を曼殊院に寄進した。京都府立医科大付属病院の看護師として長く従事していたこの女性は、ラジオ関西の取材に対し、退職する直前に起きた2011年3月11日の東日本大震災で心が動いたと話した。「医療に従事した者として、何かの役に立ちたい。確か、自分が勤めていた病院の建物、そのルーツが曼殊院の宸殿を移設したもので、その宸殿の再建資金を募っている話を聞いたことがあった。私が手助けできれば」と思ったという。
曼殊院門跡では、宸殿再建を記念して「国宝・黄不動明王像」が特別公開されている。6月30日まで。
2013年から2年間にわたる修復作業で鮮やかな色彩がよみがえった「黄不動」は、平安後期(12世紀)の作で、縦約180センチ、幅約80センチ。
高野山・明王院の赤不動、京都・青蓮院の青不動とともに、不動信仰が盛んだった平安時代の仏画として知られる。