日本において古くから食べられてきた「餅」。特に新年を迎える1月には、雑煮で食べる機会も増え、「お餅何個入れる?」といったやり取りも盛んになりますよね。日本の伝統食ともいえる餅ですが、和歌山県には「餅をつかない(作らない)」という習慣を持つ地域があるのだとか。その場所とは、世界遺産「熊野古道」で知られる田辺市の小川地区。古くは「餅つかぬ里」などという名前で知られていたそうです。その理由など、どのような伝承があるのか取材しました。
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田辺市役所によると、小川地区の「餅をつかない」という言い伝えは、さかのぼること1331年(元弘元年)にあったとされる伝説がもとになっています。
当時、後醍醐天皇の皇子である大塔宮(護良親王)たち一行が、戦乱から逃れるため熊野の参拝者に紛れようと「山伏(山で修業をする人のこと)」の姿で現在の小川地区のあたりにあった里に逃げ込みました。里の人々に食料を求める一行。そこにはちょうど収穫祭のためについた餅があったものの、「落人(戦いに負けて逃げてきた人)には食べ物を与えるな」という決まりがあったため得ることができませんでした。のちに里の人々はその山伏が大塔宮一行だったことを知り、非礼を深く悔やむことに。そこから同地区では正月に餅をつかないようになり、ひいては「餅つかぬ里」と語られるようになったということです。
現在でも同地区では餅を作ることを避けるような習慣があるのでしょうか? また、あくまで「つく」ことがNGなのであり、食べる分にはOKなのでしょうか? ここで生まれ育ったAさんから、餅の習慣について聞いてみました。
「私は60代なのですが、物心ついた時には年末の12月28日に餅をついていたのを覚えています。90代の父が小さな頃は餅をつくことはダメだったものの、もらって食べることは許されていたとのことです。正月には他の地域に住む親戚から頂いた餅を食べることは許されたそうで、まったく餅を口にしないというわけではなかったようですね」(Aさん)
「餅つかぬ里」の習慣は、Aさんの時代にはすでに伝説となりつつあったようです。Aさん自身、小学生のころに担任の先生から「君のところは正月に餅をつかないの?」と聞かれ、父に尋ねたことではじめて知ったそう。また言い伝えが伝わっているのは、小川地区内でもより限定された地域のみとのことです。
「かつて存在していた大塔村の村誌によれば、『大塔の宮600年祭』が行われるまでは、地区で正月に餅をつくことはほとんどなかったそうです。また、正月以外にも“苦(9)をつく”と言って、どの家庭も29日を避けて餅つきをしていました」(Aさん)
大塔の宮600年祭というのは、京都の大覚寺で1935年(昭和10年)に護良親王の六百年忌が行われた際、大塔村の代表が神前に餅600個をそなえ祖先の非礼をわびたという逸話のこと。つまり村の人々は、約6世紀ものあいだ餅をつくことはなかった……ということなのです。
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当時は正月の雑煮のかわりに里芋を煮た「ぼうり」という料理が食べられていたとAさん。新年に餅を食べられないという掟の影で、ひそやかに新たな食文化が誕生していたとは……。なんともたくましく、おもしろい話だと思いませんか?
(取材・文=つちだ四郎)
◆田辺市役所
646-8545
和歌山県田辺市新屋敷町1番地
電話番号 0739-22-5300