秀長や柳澤氏らが城主の郡山城跡などが舞台 奈良・大和郡山お城まつり 伝統行事「白狐渡御」とは | ラジトピ ラジオ関西トピックス

秀長や柳澤氏らが城主の郡山城跡などが舞台 奈良・大和郡山お城まつり 伝統行事「白狐渡御」とは

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 先日、再来年(2026年)のNHK大河ドラマの主人公が、郡山城の城主だった豊臣秀長になることが決まったことで、いま、脚光を浴びている奈良・大和郡山市。今年は、同じ郡山城へ柳澤吉里が享保9年(1724年)に入城し、この2024年で300年になる記念の年としても大いに盛り上がっています。そして、地元の顔でもある「城」=史跡郡山城跡などでは毎春に「大和郡山お城まつり」が行われ、今年は3月24日(日)から開幕し、4月7日(日)まで開催されています。

 その見どころの1つが、子どもたちが白衣に狐の面をつけて市内を練り歩く「白狐渡御」(びゃっことぎょ)です。このたび、大和郡山ならではの伝統行事について、白狐おどり保存会の中川圀昭(なかがわ・くにあき)さんに話を聞きました。

中川圀昭さん

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

――大和郡山お城まつりでは、白狐の御渡り=「白狐渡御」があるが、これはいつから始まり、どういうものなのか?

【中川さん】 「白狐渡御」自体は、江戸時代からあるというのではなく、昭和の初めにできた、(比較的)新しい時代の行列です。そのときに『白狐囃子』という曲が作られましたが、作曲したのが、中山晋平さん。『証城寺の狸囃子』などの童謡を数多く作曲した方ですね。その中山さんがこの曲を作ってくれたことなどもあり、白狐の行列ができることになりました。

――一時は20年くらい途絶えていたこともあったそうだが……。

【中川さん】 20年間……すごい時間ですよね。なかったんです。それを、私どものJC、大和郡山青年会議所などが、「地域の発展のために何かしようじゃないか」「子どもたちに夢と希望を与えることをしよう」ということで(おまつりの行事で行われるようになった)。それが、「白狐渡御」(復活)のはじめ(きっかけ)です。

「白狐渡御」の様子(写真提供:大和郡山市観光協会)

――復活に際して、苦労したことは?

【中川さん】 20年ほど途絶えていたということで、お祭りの道具や衣装、白狐の面などは、色あせたりして、使いものにならなくなったので、それらはみんな新調しなければいけませんでした。そのため、街中の人たちにお金をご寄付いただき、それでまかなって、やっとできるようになりました。

――「白狐渡御」での三味線を弾き手や、歌い手はどうされたのか?

【中川さん】 皆さんご高齢になり、三味線を弾く人も80歳以上の人ばかりが残っているような状況で……。そのなかで、私も女房とふたりで、家にあった三味線をひきずり出して、それを持って民謡の先生のところで教えていただいたりしました。そういったことも、三味線(の弾き手)など継承できた理由かなと思います。

――白狐の面をかぶって行列する子どもたちは?

【中川さん】 郡山市にある小学校の3年生の子どもたちが主に出てきてくれて、彼らに託しています。

――何人くらいで行列を行うのか?

【中川さん】 全部でだいたい300人くらいです。まつりでは「白狐渡御」とともに、時代行列も行われますので。時代行列では、甲冑を着た人が(戦国武将として)馬に乗って登場する様子も見られます。

時代行列の様子。大和郡山ゆかりの豊臣秀長や柳澤吉里、姉妹都市の甲府市から来訪の武田信玄らに扮した武将が市内を闊歩する。(写真提供:大和郡山市観光協会)
時代行列の様子(写真提供:大和郡山市観光協会)

――今年の「白狐渡御」はいつ行われるのか?

【中川さん】 3月31日(日)です。ちょうどその頃には大和郡山のお城の桜が満開になる時分。まちの雰囲気も明るく、あったかくなり、「春がきたよ!」という雰囲気になるときであり、皆さん心待ちにしているおまつりになります。

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