1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。2025年で節目の30年を迎えるにあたり、神戸市の久元喜造市長が会見し、災害に強いまちづくり、教訓の伝承などについて語った。
「多くの神戸市民にとって予期しない地震だったと思う。甚大な被害を受けたが、直後から神戸市では全力で被災者の支援にあたり、災害に強い強靭な神戸をつくるという決意をもってプロジェクトに取り組んできた」。会見の冒頭、久元市長はこのように振り返り、具体的には、水の確保のための大容量送水管の整備や、耐震性の高い建物の建設、100年に一度、1000年に一度といわれるレベルの津波に対応した防潮堤の整備を挙げた。
また神戸は1938年の阪神大水害で壊滅的な被害を受けるなど、(阪神・淡路大震災前には)六甲山などの土砂災害や浸水に悩まされてきたとし、「堰堤や植林が続けられた結果、2018年の西日本豪雨では、同じ雨量ながら被害はほとんどなかった。長い間の努力が実を結び、災害に強いまちづくりができてきたと思う」と話した。
阪神・淡路大震災について、久元市長は「想定外の地震だった」とし、「この30年間、その反省と教訓の上に立って『想定外』を『想定内』にしていく努力は積んできたし、災害対応を計画的に着実にスピード感を持ってやってきた。今後も想定外のことが起きることも考えてしっかり対応をしていく」とコメント。
その1つの例として能登半島地震を挙げた。神戸市は発災直後から現地に多くの職員を派遣してきた。能登での経験、被災状況を踏まえ、神戸市の災害対応を総点検しているという。「トイレカーなど我々が知らないような機器や設備が使われており、今後導入を図るなどして災害対応力を強化していかなければならない」とした。また災害対応へのテクノロジーの進化に伴い、柔軟な発想でラインやAIを使った取り組みも必要と述べた。
さらに「地震はいつ、どのような規模で起きるかわからない。地震の予知はできないという前提に立つべき」と、久元市長。それまで神戸では、過去の経験から土砂災害、洪水、中小河川の氾濫、高潮対策に目がいき、地震に対する用意がなかったとした上で、国の対応にも苦言を呈した。
「国は1978年に制定された大規模地震対策特別措置法に基づき、駿河湾沖を震源域とする東海地震の危険性を繰り返し広報してきた。これにより、国民の間では、大きな地震が起きるとすれば東海地震だという認識が広がった。しかし現実には、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、能登半島地震が起きた。地震はいつどこでどのような規模で起こるかわからないことを想定した対応が求められる。これも神戸の地震における教訓だ」とした。
では神戸の教訓をどのように伝承していくのか。
神戸では教育委員会が市内の小中学生・こどもたちに独自の防災教育を行っている。こどもたちがうたい継いできた歌「しあわせ運べるように」について、久元市長は「亡くなった方の無念さに思いをはせて、そういう方の分まで一緒に生きていこうという思いを受け継いでいこうという気持ちが込められた歌。30年前にあのような悲劇があったことを記憶として蘇らせ、それを将来にも伝えていく役割を果たしている」とし、「神戸の第2の市歌」だと話した。
一方、2024年4月の時点で、震災を知らない神戸市職員は72%。知っているのは28%になったという。市役所のOBや先輩などが研修などで語り継いでいくのが大事だとしたほか、被災地への支援活動に震災経験者とそうでない人を一緒に派遣することにも力を入れる。「市職員の災害対応力を高めるには被災地での支援活動が大事。ともに汗を流すことを通じて、震災の記憶や活動の経験・知識、その時の思いが受け継がれていく」とした。
震災から30年を経て、2024年11月には新長田の再開発事業が完了した。今後の賑わいづくりについて久元市長は「まだまだ課題はあるが、新長田の街は大きく変わり、未来に向かっての明るい希望を抱くことができるのではないか」と話し、再開発地区周辺には昭和レトロを彷彿とさせる路地裏や下町が広がり、ひとつの魅力になっている。空き家もあるので、若い世代がビジネスを起こすチャンスと捉え、地元の皆さんの協力を得て広げていきたい」と期待を寄せた。