太平洋戦争の終戦前日、米軍による最後の大阪大空襲で多くの命が奪われた「京橋駅空襲」。14日、惨劇から75年を迎え、被災者慰霊祭が大阪市城東区のJR京橋駅南口にある慰霊碑前で営まれた。今年は新型コロナウイルス感染拡大防止を鑑みて、規模を縮小した。
![京橋駅慰霊祭](https://jocr.jp/raditopi/wp-content/uploads/2020/08/%E4%BA%AC%E6%A9%8B%E9%A7%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A5%AD%E3%80%80%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%88%E5%8F%97%E4%BB%98-1024x576.jpg)
![京橋駅慰霊祭](https://jocr.jp/raditopi/wp-content/uploads/2020/08/%E4%BA%AC%E6%A9%8B%E9%A7%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A5%AD%E3%80%80%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82-1024x576.jpg)
1945年(昭和20年)8月14日、米軍のB29爆撃機145機が来襲。ターゲットは大阪城の敷地内にあった大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)。6万5000人が動員された東洋一の軍需工場と呼ばれていた。B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠一帯は壊滅的な被害を受けた。その際、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃し駅舎は吹き飛んだ。身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500人~600人と推定されている。
![森ノ宮周辺・爆撃の跡](https://jocr.jp/raditopi/wp-content/uploads/2020/08/%E4%BA%AC%E6%A9%8B%E9%A7%85%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%80%80%E6%A3%AE%E3%83%8E%E5%AE%AE%E4%B8%80%E5%B8%AF%E7%88%86%E6%92%83%E3%81%AE%E8%B7%A1-1-1024x576.jpg)
![大阪砲兵工廠と大阪城](https://jocr.jp/raditopi/wp-content/uploads/2020/08/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%A0%B2%E5%85%B5%E5%B7%A5%E5%BB%A0%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%9F%8E-1-1024x576.jpg)
当時12歳だった照屋盛喜さん(87)は遺体を焼却場へ運んだ。「戦争は『人の命は鳥の羽根よりも軽いものだ』という価値観を植え付けたのが戦争。あと24時間で終戦を迎えたと思えば本当に悔しい。米軍は『フィナーレ爆撃』と銘打って日本にとどめを刺そうとしたんですね。あれから75年。太平洋戦争で命を失った方々に、残された私たちは今、平和を守っていきますと誓いました」と話した。
![照屋盛喜さん](https://jocr.jp/raditopi/wp-content/uploads/2020/08/-e1597373792449-1024x575.jpg)
![千羽鶴奉納](https://jocr.jp/raditopi/wp-content/uploads/2020/08/%E4%BA%AC%E6%A9%8B%E9%A7%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A5%AD%E3%80%80%E6%8A%98%E3%82%8A%E9%B6%B4-1024x576.jpg)
「戦争は2度と起こしてはならない」毎年千羽鶴を奉納する女性グループの70代の女性は「あと1日待てば終戦、あの日何も知らなかった日本人。悔しさは年々強くなります」と話した。
京橋駅慰霊祭は1955年(昭和30年)に始まり、今年で66回目となった。子どもたちが平和のシンボル・鳩を掲げる京橋駅前のモニュメントは1984年(昭和59年)に地元・大阪城東ライオンズクラブが寄贈した。
![京橋駅モニュメント](https://jocr.jp/raditopi/wp-content/uploads/2020/08/%E4%BA%AC%E6%A9%8B%E9%A7%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A5%AD%E3%80%80%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E5%BE%8C%E3%82%8D%E3%81%8B%E3%82%89-1024x576.jpg)