~戦後75年・追憶~「本土決戦、“死”に抵抗なし」書写山円教寺・第百四十世長吏 大樹孝啓さん(96)《上》 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

天台座主・大樹孝啓師「本土決戦、“死”に抵抗なし」書写山円教寺・前長吏 ~太平洋戦争・追憶~《上》

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比叡山
見上げれば比叡山
見下ろせば琵琶湖畔
唐崎~琵琶湖畔を遠くに望む

■昭和20年6月、千葉県館山市にあった海軍砲術学校へ移る。当時、房総半島沖に米軍の潜水艦が現れ、上陸するという話が信じられていた。敗戦が現実味を帯びてゆく

 海軍には陸軍の歩兵隊と同じような陸戦隊があり、館山の学校で鉄砲を持たされたんです。重い鉄砲を持つのが嫌で海軍を志願したのに、そこでまた鉄砲を手にすることになりました。

「米軍が偵察のために潜水艦で出没している。上陸しているかもしれない」と上官に言われ、砂浜に砲台を造って5~6機の大砲を備え付けるんです。潜水艦を攻撃するために。鉄が少ないから(大砲の)筒が短い。

 夜間訓練では、米軍の戦車に爆弾を持って突撃する訓練や、米軍が上陸後に張るキャンプから弾薬や食料を盗む訓練をやりました。大日本帝国海軍が泥棒の稽古をやってたんです。そんなありさまでした。当時は各地が空襲に遭い、軍需工場や市街地が爆撃を受けていた。これでは勝てない、内心はそう思っていました。

■その後、長崎・佐世保の海軍航空隊に。そこで終戦を迎えるが、その6日前の「ある光景」が忘れられない

 千葉から長崎へ陸路で向かう途中、空襲で焦土と化した姫路の街が見えた。514人が命を落とした「姫路空襲」は、1945年(昭和20年)6月22日と7月3日深夜~4日の2度にわたった。千葉からの移動はそのあとだった。

焦土と化した姫路市街地(画像・関係者提供)奥に姫路城
焦土と化した姫路市街地 右奥に姫路城(画像・関係者提供)

 姫路は焼け野原。でも姫路城が残っていたのを見てホッとしました。やはり故郷。ここで降りたい、と思いましたよ。しかしね、戦争に行って死ぬというのが当たり前の時代。それどころではなかったし、すぐに気を取り直しました。故郷・姫路の変わり果てた姿を横目に、後ろ髪を引かれる思いで一路佐世保を目指しました。

 なぜか? 当時の日本は本土決戦。軍人はみな「死ぬ」ということに抵抗がなくなっていたんです。死ぬのが怖いと思わなくなると、気楽な気分になる。この現実を真に受けて、先を憂いていてもやってられない、これが戦争の怖さです。

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