私自身は弾が飛び交うなか逃げまどう、命からがら空襲から逃れるという経験はなくても、故郷の惨状を見ると悲しかった。複雑な心境でした。
佐世保へ転戦する少し前の昭和20年4月、戦艦「大和」が沈没したこのあたりから「日本は負けるな」と思っていましたよ。皆、口が裂けても言えなかったけどね。もちろん国家が国民を統制して挙国一致で戦っていたから。
佐世保で夏の陽射しが照りつけるある日、砲台を作ろうと上官らと高台に登ったんです。そのとき、はるか南の空で何かがピカーッと光った。8月9日。不思議な閃光でした。その3日前に「広島に新型爆弾(原爆)が投下された」というラジオ報道は聴いてたけれど、あの時に見たのが長崎原爆だったんですね。
そして15日に終戦、天皇陛下のラジオの玉音放送は雑音でほとんど聞き取れませんでしたが、只事ではないと思いました。敗戦です。正直「やれやれ」と思いました。自分も助かるし日本も助かる。ただし本格的に米軍が日本に乗り込んで、この国の生活は一変するのだろうなと思いましたね。
■終戦後の昭和20年8月20日ごろ、汽車を乗り継いで姫路の実家に戻った
食うや食わずの生活でした。とにかくコメがなくて。ふかしたジャガイモや、カボチャを煮たものしかない。軍隊では腹一杯食べることはできましたが、姫路に戻ってからは、とにかく食べ物がなくて、生きるのに必死でした。配給のコメも雑炊やおかゆにしてかさを増やしてました。
■終戦後、円教寺の住職となる前に小学校教諭を務める。時はめぐり、比叡山延暦寺のトップ・天台座主の登竜門とされる戸津説法の説法師に指名され、2010年に天台座主に次ぐ「探題」という位につく
私の青春時代は戦争一色でした。敗戦や戦後の食糧難の時代を経験して、96歳まで生きてこられたのは宗教人としての私にとって神仏の見えない力もあったと思います。それと皮肉にも、海軍時代の訓練で鍛えられた体と「欲しがりません、勝つまでは」という信条、培われた精神力も根底にあったのかも知れません。