「義士祭」と言えば、赤穂浪士をしのんでゆかりの地で開かれる行事だが、兵庫県三木市では毎年夏と冬に「義民祭」が営まれる。コロナ禍の今年は夏の義民祭が7月18日、三木市本町の本要寺で参列者を絞って執り行われ、併せて「三木義民の物語『身を捨ててこそ』」と題する絵本も出版された。三木市民がたたえる義民の功績とは……。
三木市ホームページなどによると、三木城を攻め落とした羽柴秀吉は1580(天正8)年、本陣を平井山から本要寺本堂に移し、戦火から逃れた町民・農民を呼び戻すため、三木を免租地とする制札(立て札)を立てた。
しかし、徳川幕府時代の1677年、延宝の検地令でその恩典が取り消される危機に直面した。住民は集会所になっていた本要寺で話し合い、大庄屋の岡村源兵衛と年寄の大西与三右衛門が死罪覚悟で江戸へ直訴に向かった。
2人は老中の屋敷前で断食の座り込みをして訴えた。本要寺に残された制札も有力な証拠となり、免租の願いは受け入れられたうえ、2人は死罪も免れて三木に戻り朗報を伝えた。免租地であることは、三木が金物のまちとして発展する基盤となったという。
12ページの絵本は三木市国際交流協会が制作・発行した。義民の遺徳を幅広く伝えようと英語訳もつけた。物語は「二人の働きをたたえる義民祭が今でも行われ、世のため、人のために奉仕することの大切さを今も私たちに教えてくれています」と結んでいる。
夏の義民祭では法要とともに、本要寺境内の三木市宝蔵に保管された江戸時代の古文書の虫干しも行われる。秀吉の制札を含め、その数約1600点。史実を物語る文書の大切さを今に伝える伝統行事だ。
冬の義民祭は大西与三右衛門の墓のある本長寺(三木市府内町)で毎年12月8
日に開かれる。三木市立三木小学校の児童が「三木義民の歌」を合唱するのが恒例。直訴の経緯をつづる歌詞は三番まであり、最後の三番は「春三月にいでたちて 命の願い訴うる 月重なりて年の暮 誠は遂に通じたり あーあー岡村源兵衛 あーあー大西与三右衛門」と歌う。