「神戸事件」。今から約150年前の慶応4年1月11日、現在の神戸市中央区の三宮神社前において、西国街道を西へと急ぐ備前藩兵の隊列の前を神戸港沖に停泊していた外国軍艦の水兵らが横切った。藩兵が切りつけた騒動は銃撃戦にまで発展、一時、外国軍が神戸中心部を占領した。その前日、西宮神社では「えべっさん」で知られる「十日えびす」が営まれていた。当時の神主の日記には、その緊迫した模様が書き記されている。
「西宮神社御社用日記」には、元禄7(1694)年から慶応4(1868)年にいたるまで、歴代の神主達が書きつづってきた日々の記録が残されている。日記によると、慶応4年の「十日えびす」は、例年のお正月気分が吹き飛ぶ、騒然とした空気の中で営まれた。前の年、徳川幕府15代将軍慶喜は、大政奉還によって政権を朝廷に返上。しかし、あくまで討幕を目指す薩摩・長州藩との間で緊張が高まり、正月3日、ついに鳥羽・伏見の戦いで「戊辰戦争」の戦端が切られた。
当時、尼崎には幕府が大坂城の西の守りとして重要視していた尼崎城があり、西宮神社がある西宮町は、西宮砲台や今津砲台など海防上の重要拠点だった。明治新政府は岡山の備前藩に摂津西宮の警備を命じ、多くの兵が西国街道を西宮へと急いでいた。事件はそのとき起きた。
江戸期の1月11日は、十日えびすの賽銭勘定と後片付けの日にあたっていた。その日の日記にこうある。「正月11日、神戸の外国人居館前に備前藩家老の行列が通りかかった際、外国人が道切りしたため、藩士が彼に斬りかかった。また他に出てきた外国人にも切りつけたので、外国船から人員が上陸し、藩士たちを追撃した。藩士らは生田神社から北に向かったり、生田川の東堤を北に走ったりと大混乱に陥った。外国人居住区からのろしがふたつあがり、神戸・兵庫・二軒茶屋近辺の大混雑は筆舌に尽くしがたいものだった」
「道切り」とは、武士たちの行列の前を横切ることで、極めて無礼な行為とされていた。戸田主任研究員によると、「この部分は、11日の箇所に後で付箋を貼って書き加えている。日記を書き終えた後に知った情報を、しっかり記録に留めておこうという神主の思いが伝わってくる」という。
11日の日記には、このほかにも「夜大坂城中火鎮る事」との記述も残る。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪港から船で江戸に逃げ帰った後も、大坂では混乱が続き、宵宮の9日には、大阪城で火災が発生、本丸、二の丸などを焼き尽くした火事は十日えびすの日も続いた。それが「鎮火した」という生々しい記録だ。
この間、日誌には内戦から逃れるため、荷物をまとめる庶民の様子や、神社の対応策なども書き記されている。当時「開門け行事」などと呼ばれていた開門神事の記録にも「時節柄ゆえ開門六つ時頃に相成り候、参詣人十四、五人ばかりに候」と、午前6時の表大門の開門時にわずか十数人しか参詣人がいなかったとの記録も残る。
風水害や飢饉など、幾多の国難を乗り越えてきた西宮神社の十日えびす。約150年を経た令和3年の十日えびすは、世界的なコロナ・パンデミックの中で営まれた。同神社では福笹などの縁起物の授与を1月末まで延長し、感染防止のための分散参拝を呼び掛けている。
◆えびすさま よもやま史話 「西宮神社御社用日記」を読む
西宮神社文化研究所・編
(神戸新聞総合出版センター)
https://kobe-yomitai.jp/book/983/
◆えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト
https://nishinomiya-ebisu.com/