江戸は段飾り 京阪は御殿飾り 「雛まつり~江戸と明治のお雛さま~」 学芸員によるリモート・ミュージアム・トーク | ラジトピ ラジオ関西トピックス

江戸は段飾り 京阪は御殿飾り 「雛まつり~江戸と明治のお雛さま~」 学芸員によるリモート・ミュージアム・トーク

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 姫路市香寺町の日本玩具博物館で「雛まつり~江戸と明治のお雛さま~」が4月11日まで開かれている。雛人形の歴史や形式についてテーマごとに尾崎織女・学芸員に解説してもらうリモート・ミュージアム・トーク。4回シリーズの3回目は「江戸の段飾り・京阪の御殿飾り」について。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 いま、私たちは、伝統的な雛飾りというと、五段あるいは七段に毛氈(もうせん)を敷き、屏風(びょうぶ)を立てまわして、内裏雛、三人官女、五人囃子、随身、仕丁、桜橘の二樹、雛道具を順番に飾りつけたものを思い浮かべます。ただ、昭和初期ごろまでは、関東と関西の違いのみならず、城下町や地方都市、農村部など、土地によって様々に異なる雛飾りがありました。春の恒例となった雛人形展は、500組をこえる日本玩具博物館の雛人形コレクションの中から、様々な時代や地域の雛人形を取り出して展示し、雛飾りの多様な世界を紹介する試みです。今春は、江戸時代後期から明治時代に、江戸(東京)や京阪(関西)の町家で飾られていた40組の雛飾りを一堂に展示しています。

 1回と2回では、雛人形には、京阪と江戸――それぞれの美意識や生活感情が表現されており、両地方が育てた雛の文化が混交して、典型的な雛人形のスタイルが誕生したことをお話しいたしました。今回は、東西の雛飾りの違いについてご紹介いたします。

●江戸で発達した段飾り

 雛飾りに人形や諸道具を飾るための雛段が見られるようになったのは江戸時代のこと。初期のころは、毛氈などの上に内裏雛だけを並べ、背後に屏風を立てた平面的な飾り方で、調度類も数少なく、簡素かつ自由なものでした。雛まつりが盛んになるにつれて、内裏雛に添え飾る人形や諸道具の類もにぎやかになり、雛段の数も次第に増えていきます。安永年間(1772~81)には4~5段、天保年間(1831~45)ころには、富裕な町家の座敷いっぱいを使うような贅を尽くした「段飾り」も登場しました。

 香蝶楼国貞(初代歌川国貞)の「風流古今十二月ノ内 弥生」と題された三枚続きの浮世絵をご紹介しましょう。座敷に飾られた雛人形のもとで、節句の祝いを楽しむ人々の様子が活き活きと描かれています。国貞が「香蝶楼」と名のっていた天保年間(1830~43)の作品です。

写真①天保ごろの雛まつり 《風流古今十二月ノ内 弥生》(香蝶楼国貞画)より
天保ごろの雛まつり 《風流古今十二月ノ内 弥生》(香蝶楼国貞画)より

 画面下手、背の高い屏風を背景に雛飾りが描かれています。上段の内裏雛の姿は桜と山吹の花枝に隠れていますが、その様式は、当時、流行していた「古今雛」と想像されます。二段目には、五人囃子のうち謡、笛、小鼓の三人の奏者の姿が見え、三段目と四段目には、桃酒の瓶子(へいし)をのせた三方、供え物が盛られた高杯など、黒漆塗り金蒔絵(きんまきえ)の雛道具がずらりと置かれています。

 私たちが親しんでいる一般的な五段飾りや七段飾りと比べると、国貞が描いた雛飾りはのびやかで自由です。三人官女、随身(右大臣・左大臣)、仕丁(三人上戸)が京阪出身の添え人形であるのに対して、能楽を奏でる「五人囃子」は江戸で誕生した添え人形です。町家の人々に非常に人気があったことが、この浮世絵からもみてとれます。


【公式HP】

◆「雛まつり~江戸と明治のお雛さま~」 学芸員によるリモート・ミュージアム・トーク
(1)雛人形に見る「京阪好み」と「江戸好み」
(2)あなたは「京阪好み」「江戸好み」?
(4)雛道具に見る江戸と京阪の違い

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