「この震災を語るなかで譲れないこだわりがあった」東北地方・太平洋沖地震から10年 フリーアナウンサー・大和田新さん | ラジトピ ラジオ関西トピックス

「この震災を語るなかで譲れないこだわりがあった」東北地方・太平洋沖地震から10年 フリーアナウンサー・大和田新さん

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これはもう、伝える側の気持ち一つだと思います。私は地元・福島県のメディアの一員として、この震災を語るなかで、どうしても譲れないこだわりがありました。まずは『東日本大震災』という言葉を私はずっと使ってないんです。『東日本・津波・原発事故大震災』という言葉で、この10年間お伝えしてきました。

それは九州の小倉で講演をしたときに「皆さんにとって東日本ってどこですか?」と聞いたら、ほとんどの方が「名古屋から」とおっしゃったんです。大阪の関西大学で授業をしたときも、学生さんに同じ質問をしたら、ほとんどの学生さんが「静岡から」と言っていたんですね……。

では、逆に、私たちに置き換えたとき、『西日本豪雨』というものがありましたが、「じゃあ『西日本豪雨』って一体どこ?」「最も被害があったのは何県のどこ?」と聞かれたとき、私たちもすぐ答えられない。

ですから、やっぱり地震と津波と原発事故、風評被害と今も戦っている福島県のことを伝えるには、『東日本大震災』では伝わらない。原発事故によって今も3万6000人の方が避難をしているわけですよね。その人たちの悲しみや苦しみ、あるいは、怒りを伝えるには、『東日本・津波・原発事故大震災』という言葉で伝えないといけないと思うのです。

原発事故ばかりが福島県については注目されて報道に出ますが、その1番の象徴的な伝え方が、カタカナの『フクシマ』なんです。でも、福島県では地震と津波で1606人の方が亡くなって、今も190人が行方不明であるという現実を伝えるのに『フクシマ』だと、原発事故のイメージしか伝わらないなと思います。やっぱり『3.11』というよりも、『2011年3月11日』という言葉を、ちゃんと大事にしていかなきゃいけないと思います。

原発を表すにしても『福島の原発』『福島の第一原発』ではなく『東京電力・福島第一原子力発電所』『東京電力・福島第二原子力発電所』と、正式名称を伝えてもらわないと、福島に住んでいる私たちとしては、やはり少し、地元のメディアとは(伝え方が)違うなと感じてしまいますね。

◆震災当時を振り返る

――2011年3月11日、大和田さんは司会のお仕事をされていたと聞きましたが……。

はい。ラジオ福島の本社スタジオから、車で30分くらいのところに飯坂温泉というのがありまして、そのホテルの地下3階で歌謡ショーの司会をやっていました。ゲストの女性歌手の方が1曲歌い終わった途端に、「ゴオオオ、ガラガラ、ドドド」という響きがあったんです。

それから天井の照明がどんどん落ちてきて、私はマイクを握って「どんなに大きな揺れでも1分ほどで収まりますから、どうぞ皆さん、落下物に対して頭を守ってください!」と呼び掛けていましたが、1分くらいしたら停電になって、マイクも効かなくなったんです。


※後編では、「東北地方・太平洋沖地震」について報道していた当時の大和田さんが経験したこと、そして、福島県の未来についてお話をうかがいます。

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