「この震災を語るなかで譲れないこだわりがあった」東北地方・太平洋沖地震から10年 フリーアナウンサー・大和田新さん | ラジトピ ラジオ関西トピックス

「この震災を語るなかで譲れないこだわりがあった」東北地方・太平洋沖地震から10年 フリーアナウンサー・大和田新さん

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それで、本当に人間が“怖い”と思ったときにはパニックにならない、というのがあの時の教訓でした。

スタジオには、当時65歳以上のお客さんを400人以上お迎えしていたんですが、誰も「キャー!」「怖い!」「助けて!」という悲鳴はなかったんです。そのくらい怖かったんですね。本震は2分半揺れて、その後に余震もありましたが、いろんな人に話を聞くと「5分以上揺れたよなぁ」「いやいや10分揺れてたよ」と、それぞれ感じ方は違うと思うんですが、そのくらい揺れて怖かったというのが、あの時の印象ですね。

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宮城県女川にて。津波で奥様を亡くした男性に大和田さんがインタビュー(写真提供:大和田新さん)

――当時、今でも思い出すシーン、というのは何かありますか?

そのご質問は、いろいろな方、メディアのからも何百回と聞かれたんですが……ないんですよ。私自身が、あのとき何をしゃべったのか、何を伝えたのか、全く覚えてないんです。

あのとき「大和田さんのあの一言で救われたよ」と言われたりしましたし、私が「明日の朝の夜明けが午前5時55分、復興に向けてGo、Go、Goだね!」と言ったみたいですが……、本当に覚えていないんです。

だから、改めていろんなメディアで当時の私のオンエアが放送されて、「あぁ、俺こんなこと言ってたんだ」と、つくづく思い返しているのが、今なんです。

――当時はそれだけ必死だった、ということですね。

そういうふうに言わざるを得ないと思います。だから正しい放送、正しい報道ができていたのか、自分が何を言ったか覚えていないから、「おまえ、ちゃんと放送してなかったな」と言われたら、「ごめんなさい」と謝るしかないんです。本当に覚えていなくて……。

ただ、いろんな方から「あのとき、大和田さんはこう言っていたよ」「家族で車の中で一夜を明かしていたときに、『明けない夜はないよ、だから家族みんなで頑張ろうね』という大和田さんの一言を聴いて、俺たちは救われたよ」と言われて。


※後編では、「東北地方・太平洋沖地震」について報道していた当時の大和田さんが経験したこと、そして、福島県の未来についてお話をうかがいます。

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