現代の医学では、認知症を「元に(発症以前に)戻すことはできない」。だから時が経てば経つほど、捜査→逮捕→公訴提起(起訴)→刑事裁判、という、ある程度時間が必要な、時間を掛けなければならないプロセス・手続きが進み、その間に認知症が進行するならば、限界事例が近づいてくる。ある段階に至れば、医師としても認知症の判断能力はおろか、コミュニケーション能力そのものがあるとは言えない状況に至った場合、もはや裁判そのものが不成立、法律の限界となってしまう。我が国の刑事訴訟法は、そうした極端なケースを想定をしていなかったため、基本的には公判手続きの停止を求めるところで留まっている。
最高裁は、もはや「訴訟能力の回復」の見込みが有り得ない場合は、有罪か無罪か、という判断をするのではなく、手続きそのものを打ち切るという判断を示している。これは司法の限界を示した例ともいえる。
《刑事訴訟法は、被告の訴訟能力が回復する見込みがない場合、検察官が公訴を取り消せば裁判が打ち切りになると規定。裁判所による打ち切りは明確な規定がない。2016年12月、最高裁第一小法廷は、殺人罪で起訴後に精神疾患が悪化して1997年に公判が停止された70代の男性被告について、事案の真相を解明して法令を迅速に適用するという刑事訴訟法の目的に照らし「検察官が公訴を取り消すかどうかにかかわらず、裁判所が打ち切ることができる」として、との初判断を示し、公訴棄却を言い渡した》
犯罪というのは、それを犯した人物の人格の一部だ。例えば強盗事件を起こした犯人も、犯行後に逃走する際には赤信号で停止したり、お年寄りに道を譲ったりするものだ。すべてが悪ではない。極端な話、犯行は1つのエピソードに過ぎない。すべてを見た裁判員が、印象も含めて信用性を判断したのが一審の死刑判決(一審の審理は計37回)。
この事件では2件(神戸市・伊丹市の事件)で青酸化合物は発見されていない。被害者が全財産を被告に遺贈する内容の公正証書遺言についても一部は証拠採用されたが、残りは証書の存否が明らかになっていない。こうした点についても渡辺教授は指摘する。
被告の供述もさることながら、物証でどこまで犯罪が浮かび上がってくるのか、慎重に判断してほしい。刑事裁判である以上は冷静に見て行かなければいけない、ほかの事件で発見されている青酸化合物から、筧被告があやしい、だからその”あやしさの影”を利用して、客観証拠が乏しいものと同様に見立てるのは危険だ。1件ごとに、客観証拠を積み重ねて、状況証拠という単なる推認ではなく、毒物を与えたという事実がくっきりと浮かび上がってくる、その時にはじめて有罪といえる刑事裁判でないといけない。
確かに起訴された4件の事件・4人の被害者に共通するのは「筧被告と近い関係性」だった。仮に自白がなくても、被告が犯人でないと説明ができないという合理的なものがあったのかが重要だ。特に神戸市の男性が被害者となった強盗殺人未遂事件では(この男性は後に死亡)筧被告がこれまでと同じような手口で死に至らしめたと断定できるか、そこに合理的な疑いがないと確信できるのか、やはりそれにふさわしい証拠が必要だ。さらに、その証拠に反論があった場合でも、それを払拭できるだけの力強さがあったのか、こういう構図が浮かび上がらない以上は有罪にはできない。「死刑」というのは、1人の被告の命を国家が奪う究極の選択=「極刑」であり、重い責任を負うものである。