終戦前日、1945年8月14日に多くの命を奪った「京橋駅空襲」の犠牲者を弔う慰霊祭が14日、JR京橋駅前(大阪市都島区)で営まれる。
1945年(昭和20年)8月14日、アメリカ軍のB29爆撃機145機が来襲。ターゲットは大阪城の敷地内にあった大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)。6万5000人が動員された東洋一の軍需工場と呼ばれていた。B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠一帯は壊滅的な被害を受けた。その際、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃し駅舎は吹き飛んだ。身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500人~600人と推定されている。
京橋駅空襲の語り部、照屋盛喜(てるやせいき)さん(88・大阪市城東区)は、あの日犠牲になった女児や無残な遺体の記憶に胸が締め付けられる。現在活動する空襲語り部のうち、ただ1人の経験者だ。照屋さんと大阪城内にある「大阪砲兵工廠跡」を訪ねた。
「これが、東洋一の軍需工場との呼び声高き、大阪砲兵工廠の現実です。窓ガラスは外れ、ベニヤ板もはがれ、もう廃墟ですな。これが太平洋戦争の結末。格好つけて『遺構』として残すんやない。はるか昔、太閤さん(豊臣秀吉)が築いた大阪城の敷地の片隅に、この哀れともいえる姿が残るからこそ、もう2度と、戦争という愚かなことを起こすまいと、皆が誓うんやと思いますよ」
照屋さんは、大阪城にほど近い、城東区新喜多(しぎた)で生まれ育った。大阪市によると地名の由来は、江戸時代初期の大和川付け替えで、旧河川敷の新田開発者である鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の名前の頭文字を1字ずつ寄せて付けられたもの。今では静かな住宅街に様変わりしたが、戦前は京橋駅の南口から寝屋川沿いにかけて、芝居小屋や料理屋なども並び、賑やかな雰囲気があったという。