阪神・淡路大震災の被災地のうち、甚大な被害を受けた神戸市長田区は死者921人、全壊棟数15521棟にのぼった。特に火災による住宅の消失が著しく、4759戸と、神戸市内の全焼棟数の68.3%を占めた。長田の街は築80年近い長屋が軒を連ねていたこともあり焼失、倒壊家屋の増加に拍車をかけた。長田区の家屋倒壊率は57.2%で神戸市の平均30.8%を大きく上回っている。
当時、兵庫県警の警察官は、負傷した家族のことや、倒壊した自宅にかまうことなく職場に駆け付け、不眠不休で救出、交通整理などの活動に当たった。
阪神・淡路大震災発生から27年経ち、世代交代が急速に進む中、兵庫県警の警察官の約75%が「震災を知らない」世代となった。震災で得た貴重な経験や教訓の風化が懸念される。
こうした中、長田警察署で13日、現場で救出・救助活動に従事した警察官が語り部となり、20~30代の警察官にその経験を語る研修会が開かれ、4人のベテラン警察官が教訓を伝えた。
土佐享弘警部補(地域第一課)は当時機動隊員。発災2日目、甚大な被害を受けた長田区での救出活動を命じられた。機動隊としての経験が長いが、震災は「警察人生で最も大きな出来事だった」と振り返った。そして「悔しい。助けられなくてごめんなさい。もっと助けることができたのに」と多くの後輩を前に涙を浮かべ、絶句した。
会場が張り詰めた空気になったのは「自分の手をにぎりしめ、冷たくなって亡くなられた方がいた」と話した時だ。助けたくても助けられない現場、がれきの中に埋もれた住民を救出することができず、遺族に遺体を引き渡すのが精一杯だったことを今でも悔やんでいる。
その後、2011年の東日本大震災でも、宮城県・大川地区へ応援に駆け付けた。住民が言う。「ここ、私の家だったんです。全部流されてしまったけど」。土佐さんは背中を向けて泣いたという。27年前、焼け野原の長田の街でも聞いた言葉を思い出す。「ここ、私の家でした。残ったのは私だけですけど」。遺品や遺骨を一緒に探したことが忘れられない。
四間(しけん)久雄警部補(刑事第二課)は宝塚署で検視状況の確認などに当たった。被災者の救出・救助活動とともに、屋根瓦を修理するとうたう悪徳訪問販売や解体家屋のがれきの不法投棄などの取り締り、避難所での防犯対策、さらに当時社会問題化していたオウム真理教に関連する行方不明者の捜索も並行していた。どれもが警察として、有事の際でも必要な業務だ。「戦後の安心・安全神話が崩れただけでなく、地下鉄サリン事件とともに忘れられない、激動の1995年だった」と振り返る。