明治維新へ突入する直前、ただの漁村であった神戸に、港町としてのポテンシャルを見い出した海舟。神戸海軍操練所は1864年に海舟の進言で設置される。戊辰戦争の際に西郷隆盛と協議して江戸無血開城に導いた幕臣・海舟は、明治維新後も新政府で要職を歴任する。
本来、高見さんらは咸臨丸の寄港地をヨットでめぐる「咸臨丸160年プロジェクト・海わたる風~咸臨丸」の船旅を、この2020年に予定していたが、コロナ禍で断念していた。
それから2年、海という「密」とならない空間で感染対策を十分に施したうえで実現させた。
このプロジェクトは2022年4月29日に大阪港からスタート、(40フィート・全長約12m、幅4m、マスト高15m)のヨット「サザンクロス」が咸臨丸ゆかりの地をめぐりつつ、同艦が沈没した北海道木古内(きこない)を目指した。
高見さんに、プロジェクトを振り返ってもらった。
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メンバーは2022年最後の目的地、北海道木古内の市民団体「咸臨丸とサラキ岬に夢見る会」の皆さんが出迎える中、木古内釜谷漁港へ2022年6月28日朝に到着。咸臨丸終焉の地、サラキ岬から海を眺めた。風と潮の香りに往時を思う「咸臨丸」の勇姿。オランダにちなんだモニュメントともに地元の皆さんに愛され、咸臨丸は今も人々の中に息づいていた。
さかのぼること162年前、咸臨丸(かんりんまる)は太平洋を渡りサンフランシスコに行き無事、日本に戻ってきた洋式帆船であることは誰もが知るところ。セイリング・ヨットを楽しむ私たちは瀬戸内海の塩飽(しわく)本島に寄港した際、国の指定史跡「塩飽勤番所」の資料館で咸臨丸の功績を知った。江戸時代の造船を担った船大工・咸臨丸の水主(かこ)の多くがこの塩飽の出身だったことから学ぶことができた。
今回のプロジェクトは、咸臨丸が見た港の風景に想いをはせ、まずは日本の海域から航跡をたどり、寄港地を訪ねた。”海わたる風のごとく”咸臨丸をテーマに自然を感じ寄港地の人たちとのふれあいを楽しみに。そんな思いで計画を練った。
協力するヨットは、サザンクロス号・艇長の中路康行氏(72)とその仲間たち、計15人。新型コロナウイルスの影響で中止か、規模縮小か、さまざまな議論を進めつつ、結果的に十分な感染症対策をしてプリジェクトを進めることに。
1857年オランダから長崎にやってきた咸臨丸。昨年は長崎を中心に対馬、五島、天草、山川、指宿など咸臨丸に縁のある港に寄港した。4月29日に大阪から函館へ、まずは太平洋を南下して小笠原諸島を目指すことにした。この日はあいにくの雨。大阪北港マリーナ(大阪市此花区)を出港したが、低気圧の接近が気になる。大阪湾を紀伊水道に向け航行。徐々に雨が強くなり風が強くなってきた。海に生きる私たちは、常に最悪の事態を考えて航海に臨む。今回も不測の事態があれば寄港も視野に入れていたが、予想が的中。大時化(しけ)である、嵐の洗礼を受けることになった。
出発に際しては季節的な時期もあるが、日本には「灘」とつく海域が多くあり、特に近海は厳しいと改めて感じた。泉佐野沖で風速20m超の暴風雨、悲鳴のように風が鳴き船体が激しく動揺した。タブレットで何度も気象データを確認。コース上には連続して強い低気圧が通過する画像が表示される。
折しも、4月23日に北海道・知床遊覧船沈没事故が起きて6日後の出航。航海にあたっては、当然のごとく慎重な判断が求められていた。
ここはためらうことなく「安全を最優先」して、船首を八丈島(伊豆諸島・東京都)へ向けることに。低気圧を避けるため、臨時的に八丈島へ入港を決めた。5月3日12時に八丈島の八重根漁港に寄港。ここから小笠原諸島まで、まだ約370マイル(約700㎞)もある。距離と気象情報を考慮して小笠原諸島への寄航は見合わせることにした。