百貨店の美術部はなぜ大阪発祥? 謎に迫る「FROM OSAKA ~百貨店美術部モノガタリ~」 高島屋史料館 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

百貨店の美術部はなぜ大阪発祥?  謎に迫る「FROM OSAKA ~百貨店美術部モノガタリ~」 高島屋史料館

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 百貨店の美術部の成り立ちと、その文化的な役割について、収蔵する名品とともに紹介する企画展「FROM OSAKA ~百貨店美術部モノガタリ~[第Ⅱ部 美術品を購う]」が高島屋史料館(大阪市浪速区)で開かれている。7月3日(月)まで。

会場の様子
会場の様子

 百貨店の美術部の歴史は、1907(明治40)年、三越呉服店に創設された「新美術部」にさかのぼる。続いて高島屋呉服店が1911(同44)年、「美術部」を立ち上げた。いずれも大阪支店に誕生したこれらの美術部は「百貨店美術部の両雄」として位置付けられた。

 三越は新美術部で、絵画や彫刻の陳列販売を導入。画家が依頼主に注文を受けてから作品を制作していたそれまでのスタイルでなく、客が完成品を見て選ぶ販売方法を打ち出した。

 一方、高島屋は、美術部創設に先立つ1909(同42)年、横山大観、竹内栖鳳ら著名な画家100人に同一寸法の絵を描いてもらい、作品を掛け軸に仕立ててズラリと並べた展覧会「現代名家百幅画会」を開いた。「多くの人に一流の芸術を楽しんでいただきたい」との目的で開催された同会は、入場無料。京都、大阪、東京の高島屋各店を巡回し、大きな話題になったという。

高島屋心斎橋店で開かれた「現代名家百桜画会」1912(明治45)年
高島屋心斎橋店で開かれた「現代名家百桜画会」1912(明治45)年

 だがなぜ、両美術部の発祥地は、当時、二大画壇を形成していた東京や京都でなく、大阪だったのだろうか。高井多佳子学芸員は「その頃になると、美術への関心が高まり、自宅に絵画を飾りたいと考える人や作品を贈答品としてやりとりするケースが増えた」背景に着目。大阪が「お金が動く街、いわゆる『商都』だったからではないでしょうか」とみる。展覧会タイトル「FROM OSAKA」には、百貨店美術部のスタートが大阪であり、新しい美術の動きが大阪から始まったという意味が込められている。

高島屋が美術部を創設したころの貴重な資料
高島屋が美術部を創設したころの貴重な資料

 美術部創設に関連したコーナーでは、三越「新美術部」新設当時の案内状(パネル)や高島屋「現代名家百幅画会」の写真(同)、与謝野晶子が1932(昭和7)年、高島屋大阪南海店(現高島屋大阪店)全館開店時に詠んだ歌などを展示。初個展以来、存命中のほとんどの個展を高島屋で開いた文人画家、富岡鉄斎(1836~1924年)が揮毫した「高島屋美術部」の墨書(1919[大正8]年)も並ぶ。

富岡鉄斎「高島屋美術部」1919(大正8)年、紙本墨書
富岡鉄斎「高島屋美術部」1919(大正8)年、紙本墨書
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