最初は手探りだった。山田氏は「何せ、参考となる音源が残っておらず、どう仕上げていくかが重要だった。その中にあって、ソロ・バイオリニストの高木和弘氏が素晴らしく、『彼(高木氏)について行けば大丈夫だ』と思うようになってからの仕上がりは早かった。奏者にとって、譜面さえ追えば何とかなるのかも知れないが、高木氏は音楽的な精度を高く仕上げてくれた。だからこそ、合唱もオーケストラも彼のもとにまとまれば、しっかりとした形になると手ごたえを感じた」と振り返る。
この曲はバイオリンコンチェルト(協奏曲)的な要素が強く、なおかつ宗教的な厳かさを表現する合唱も重なっていく。
曲作りのプロセスについて山田氏は、「イメージも出来上がりもゼロの状態からスタートして、全員で作り上げていく喜びがあった。毎日、『当時、こんな音で、このように転調して…』などという発見があり、楽しい。しかも没後に、コンサートとして初の演奏となると、良くも悪くも、演奏そのものが、その作品の評価を決めることにつながる。どんなに素晴らしい曲でも、最初の演奏が今一つだと、その後話題にならない。その逆もしかりで、曲の評価が低くても、初演奏が素晴らしくて有名になったものもある。だから責任は重大だ。一方でワクワクする気持ちもある」と話した。
そして、「『ベネディクトゥス幻想曲』は、リハーサルで、最初に音を出した時と、コンサートでの完成形の違いが大きいかも知れない。オーケストラと合唱に加え、ソロヴァイオリンの活躍…スコアを読み解くのが楽しい」と話す。
ワクワクする気持ちと楽しさ…特に新型コロナウイルス感染拡大の影響で公演中止が続いた時に、山田氏は表現者としてさまざまな思いがよぎったという。コンサートはもちろん、リハーサルに関しても、「上手く作ろう」という考え方を捨てることができた。ややもすれば、ただ無難に終わってしまうからだ。
誰も通ったことのない道を歩むのに、格好つける必要はなかった。
長男・大澤壽文さん(81)も神戸文化ホールの“歴史的公演”に感慨深げ。「太平洋戦争末期の1944年、私は物心つく前だったが、父がこんなモダンな曲をひそかに作曲していたのかと思うと、ただただ驚く。暗鬱とした時代、世に送り出すあてもなく書いた作品が、混沌とした現代によみがえった意義は大きい」と目を潤ませた。
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