秀吉はやはり、自己アピール強めキャラだった―。16世紀後半、羽柴(豊臣)秀吉(1537~1598年)が参戦した三木合戦(兵庫県三木市)など中国攻めに関する35通の手紙の写しをまとめた冊子が見つかり、このほど東京大学史料編纂所(東京都文京区)の村井祐樹准教授(日本中世史)と兵庫県立歴史博物館(兵庫県姫路市)の前田徹学芸員(同)が発表した。うち34通は新発見で、織田信長の側近らが秀吉に宛てた書状が中心。内容から、秀吉が自分の活躍ぶりを側近らに喧伝する手紙への返信だったとみられ、秀吉の押しの強さを物語る史料として注目を集めそうだ。
冊子は村井准教授が2022年1月、ネットオークションで発見。縦28センチ、横19センチで、35通の手紙がつづられていた。それらの中で、1通については原本が別に伝えられているが、それ以外の34通は原本も写本もなく、これまで存在が知られていなかった。
手紙の多くは秀吉あるいは秀吉の部下宛てで、とくに興味深いのは、差出人が信長の側近8人連名の「織田信長家臣連署書状写」。秀吉からの手紙への礼で始まり、秀吉が8人に向けて送ったと思われる三木城包囲網の絵図を「拝見し、目を驚かせました。さすがのお手柄と存じます」と絶賛。さらに「落城も時間はかからないでしょう。本当に、別所(=別所長治[1558?~1580年]兵庫県東播磨地域の戦国武将、三木城主)には羽根でもできて飛び立つよりほかに脱出するすべはないと、みな感じ入っております」(以上、大意)と、大げさに持ち上げている。
村井准教授は「自分の戦功を側近らに自慢し、彼らから信長の耳に入るよう計算していた」とみており、「文中、『ご無沙汰しています』とあり、側近らは秀吉とさほど親しくない様子。それなのに、自己アピールする手紙が送られてきて、当惑したのではないか。現代に置き換えると、迷惑な一斉メールに仕方なくみんなで当たり障りのない返事を出したといったところでは」と推測する。
一方、秀吉が織田信長(1534~1582年)側に宛てた手紙には、別所が離反したことの報告が遅れたことをわびた上で、別所との交渉について具体的に記述。さらに三木合戦中、秀吉と播磨の有力領主たちとのやりとりが分かる書状も数点あり、戦国史を考察する上で未知の事実も明らかになった。村井准教授は「三木合戦や鳥取城攻めに関してまとまった量の文書が出てきた。いわば『羽柴家文書』。歴史的事実ばかりでなく、自己顕示欲が強い秀吉、部下を管理したがる信長の性格も垣間見ることができる貴重な史料」と評価する。
手紙はもともと秀吉の右筆(書記役・秘書)が持っていたが、その後姫路藩主の手に渡り、長年姫路城で保管されていたとみられる。奥書によるとその後も数回の転写を経ているが、原本の筆跡や花押(サイン)がまるで模写のように精巧に写し取られている点も特筆に値する。