《ウクライナ軍事侵攻2年》「この日本で、一人娘と一緒に見つめる将来」母として、デザイナーとして… | ラジトピ ラジオ関西トピックス

《ウクライナ軍事侵攻2年》「この日本で、一人娘と一緒に見つめる将来」母として、デザイナーとして…

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シェルターでは段ボールがベッド代わりに 悲痛な毎日を過ごした
民間人として火炎瓶を作り、抵抗の意思を示すしかなかった(※画像の一部を加工しています)

 「こんなに長く続くとは…」。女手ひとつで育てた娘を連れ、この状況を怖がっているわけにはいかない。
 
 その後、ポーランドから日本へ。気が付けば、ウクライナを離れて1年半が過ぎていた。

■なぜ、悲しい出来事が繰り返されるのか

 「もともと2014年から戦争は始まっていた。クリミア半島をロシアに占領されて、ウクライナ人としてとてもショックだったが、キーウに住んでいると、“どこか遠くで起きた出来事”と思っていた。まさかこれほど長期の戦争に発展するとは…」と振り返る。

こみ上げる涙「悲しい歴史、なぜ繰り返されるのか…」
ナタリアさんの祖母が80年ほど前に作った刺繍絵 この教会は第二次世界大戦で燃え尽きたという

 「ウクライナは、歴史的にロシアとの確執があった」と話すナタリアさん。その一例に挙げたのが「ホロドモール」だ。1932~33年にかけてウクライナで起きた、旧ソ連の最高指導者・スターリンによる計画的な殺戮(さつりく)で、穀物の強制的な徴収や弾圧により、数百万人が餓死したとされる。
 「ホロドモールは豊富な資源、有能な芸術家、世界に誇れる文化を生んだ土壌に対する“ねたみ”だったのか、このウクライナを、どうしても自分の手の内に入れたかったのか」。歴史は繰り返すと言われるが、どうして今、このような悲劇が引き起こされたのかと思うと、涙が止まらない。

■これから、という時に

 ナタリアさんは2013年にウクライナでデザインスタジオを開いた。そして自らがプロデュースするブランドを立ち上げ、ヨーロッパ各地でのファッションショーも展開、もうすぐ10年という2022年2月24日にすべてが打ち砕かれた。そこから風景が一変する。120平方メートルある被服工場はウクライナ軍人の休養所となった。工場にいたスタッフ70人のうち、30人が残った。

ナタリアさんの自信作 ウクライナ刺繍の“付け衿(えり)” 色のバリーションも豊富 女性は特にその可憐さに目が留まる
デザインされている植物は「カリーナ」古代太陽のサークルに由来する 赤い実は血と不死の象徴とされる 独立を求めるウクライナの姿を赤色のカリーナになぞらえ、"栄光のウクライナを奮い立たそう"と歌う「草原の赤いカリーナ」いう民謡がある

 「戦地・ウクライナで雇用を守らなければ」。日本でデザインの構想を練り、データにしたものをウクライナへ送る。そして商品を制作する。その商品を日本へ輸入してビジネスを成り立たせている。
 日本での最初の3か月間は、精神的につらかった。言葉もわからない、収入も断たれ、未来が見えなかった。そこからはい上がるため、ナタリアさんは1度も帰国していない。今後もビザを延長してこのスタイルを続けるという。
本当は故郷・ウクライナに帰りたい。しかし、あの美しい風景はなく、いつ終結するかわからないロシアとの戦いの動向を、日本で見守るしかない。


【ウクライナ・ヴィンテージ民族衣装のページ】

■フアッションデザイナー ナタリア・ゴロドさんプロモーション映像 (C)N.Gorod


■ウクライナ・縫製工場とナタリア・ゴロドさんの目指すファッション(C)N.Gorod

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