街の景色が変わりゆくのが楽しみな反面、故郷・神戸の景色が塗り替えられていくのは複雑な心境だ。
震災当時の写真と今の景色を比べると、街の成長や復興の軌跡を感じ、感慨深いが、しっかりと目に焼き付けなければ、次の世代に伝えることができない。
神戸・阪神間に住む子どもたちは小学生の頃から、毎年震災学習があり、語り部の話を聞く。
そして神戸の再生を願う、ふたつめの神戸市歌にもなった「しあわせ運べるように」を歌う。
断水が続いたり、道ががれきで埋もれて歩けなかったり、地震で命を落とすだけではなく、その後の火事や、病院に搬送できずに亡くなった人のことなど、さまざまな話を聞いてきた。
火の手が迫るなか、がれきに挟まれて動けないある母親が、子どもに「先に逃げなさい」と言った。子どもは「いやだ!」と泣きながら逃げた。衝撃を受けた話のひとつだ。
家族からも震災の話を聞いている。祖父母の家は灘区の商店街で米穀店を営んでいたが、震災で店舗は全壊し、自宅も火災の延焼で全焼した。
消防団に所属していた祖父は地震が起きてすぐ救助活動をはじめた。夜間パトロールをして、2〜3時間だけ商店街近くの詰所でたき火を囲みながら仮眠をしていた。
祖父はそうした生活を、地震から8日間続けた。父や祖母が身を寄せていた親戚の家に祖父が戻ったのは1月25日の朝だった。
地震発生後、初めてしっかりと睡眠を取った祖父は、いびきが聞こえなくなり、亡くなった。死因は心筋梗塞だった。公務災害と認定されたが、震災犠牲者として認められることはなかった。
家族が、「『もっと(祖父に)休んで』と強く言えばよかった」と後悔しながら話していたのを覚えている。
こうした話を聞くたびに、地震はとても恐ろしいものだと感じ、もし自分が遭遇したら、どうすれば良いのかと考えさせられる。