正面から震災と向き合うようになったのは、大学に入学してから。「自分は震災を直接知らない。だから知りたい」という思いから、防災を学ぶことに決めた。
大学4年になり、両親にボイスレコーダーを向けて、震災当時のことを初めてインタビューした。担当教授からの勧めだった。“点”でしか知らなかった事実が”線”になる。
出産直前の母親を避難所まで誘導してくれた女性のこと、産気づき、救急車が手配できない中、父親が母親を車に乗せて病院に向かうものの、渋滞で進めず、機転を利かせて抜け道へ誘導してくれた警察官のこと。
多くの支えがあって、自分は生まれたのだと知る。
身重だった母親は、マンションの階段を駆け下りて避難所へ駆け込んだ時、痛みとこの先の不安感しかなかったという。それ以外は覚えていなかった。
そうした話を、ゼミの一環で小学校に出向き、子どもたちに語りかけた。初めて自分のことを話した時の子どもたちの表情に緊張感が走る。その時、伝える重要性に気付く。
社会人となり、震災の教訓を伝えるグループ「語り部KOBE1995」のメンバーとしても、各地で講演を続ける。
「例えば、震災当時40歳の方が70歳となり、記憶の薄れは避けられない。阪神・淡路大震災が起きた事実は変わらない。それを風化させてはいけない。そこで誰が立ち上がるのか?私たち、震災を知らない世代にできることがある。生きたくても生きられなかった人たちの思いや悔しさをどう伝えるか、強制ではなく自発的に語っていきたい」と意気込む。