《以下、木村教授コメント》
光復節は単に植民地支配が終わった日であるだけでなく、南北分断がはじまった日でもあり、その3年後の1948年に大韓民国が建国された日でもある。
建国以後、光復節にはさまざまな事件、出来事があった。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領暗殺未遂が起こり、同夫人が流れ弾を受けて死亡したのは、まさにこの光復節での式典でのことだった。ちなみに、韓国ではじめて地下鉄が開通したのもこの日。

韓国の人々にとって、日本の植民地支配下の1919年3月に起きた民族独立運動「三・一独立運動」の記念日である“三一節”と並ぶ、重要な日になっている。
そもそも朝鮮半島は、連合国による日本の占領政策の延長線上で南北に分断された。こうしたことから、韓国の人々にとっては植民地支配から南北の分断、そして冷戦下の対立までをひとつのストーリー、一連の流れとして理解されている。
中には、「“南北統一”こそが真の植民地支配の終わり」と語る人も出てくる。

とはいえ、このことは光復節が韓国の人々にとって日韓関係をことさらに意識させる日であることを意味しない。
ソウル市内をめぐった。実際のところ、今年(2025年)の光復節では、日本大使館前でも、歴史認識問題を象徴する場所になっている少女像(※)前でも、集会やデモは何ひとつ行われなかった。
保守派の集会はもちろん、進歩派の集会ですら、今の日韓関係について語る人はほぼおらず、慰安婦問題に関わる運動で知られる「正義連」のブースでの活動が目に入る程度だった。

植民地支配が過去になっていることを示すのが、植民地支配や日韓関係に関わる集会やデモがほとんど存在しない一方で、ソウルをはじめとする韓国全土の歴史博物館の特別展示には人々が多く詰めかけていることだ。
そして、そこではポケモングッズを握りしめた子供たちを前に親たち(当然、彼らも植民地支配を教科書で学んだ人たち)が、一生懸命に植民地支配について話している。
今や、植民地支配は犠牲者を悼み、その日々を悲憤慷慨する対象ではなく、「学習」の対象になっているのだ。

だからこそ、今回の李大統領の演説もまた、「植民地支配そのもの」ではなく、その歴史を現在につながるものとして構成した。
尹前大統領による戒厳令宣布後の混乱を受けて成立した政権にとって何よりも重要なのは、“韓国の民主主義”であり、植民地支配に対する抵抗運動をその前史として位置付けている。
植民地支配について、それ自身として語るよりも、現在の韓国につながる話として語る方が、韓国の人々にとって「光復節」の意味が実感できるからである。


