明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫・丹波について、歴史をはじめ多面的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。丹波篠山シリーズの4回目、8月20日放送回では、明智光秀ゆかりの「八上城」についてのお話を「八上城麒麟が来る委員会委員長」の小野健二さんとともに進めていきます。番組パーソナリティーは、「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授と、久保直子さんです。
【田辺】 この八上のお城を拠点にして江戸幕府によって篠山城ができる前、この丹波(旧多紀郡)に勢力を張った戦国大名のひとつが波多野氏でした。波多野氏のことはどのように思ってらっしゃいますか?
【小野さん】 私が思うには、この地元で長年に渡って庶民に愛された大名ですね。光秀に滅ぼされるまでの長年に渡って民に愛された方だと思います。
【田辺】 今でもこのあたりの方は波多野氏に対しては愛着を持ってらっしゃるようですね。
波多野という一族は山陰の土豪で日本海側の石見国の人なんです。言い伝えでは俵藤太=藤原秀郷の子孫だと言われています。山陰からこちらに来る途中に因幡国にあった八上という地名をここに持ってきたという説があります。ちなみに、もう一つは「かみ」。篠山川の上流にあたるということで、地名の接頭語「かみのち」で「やかみ」だろうという説もあるんです。
波多野氏はだいたい1400年代の半ばくらいに何らかのルートを辿り畿内に来るわけです。1400年代の半ば過ぎには応仁の乱がおこります。この時に山名宗全と戦った細川勝元の配下として活躍し、この丹波一体の支配権を細川氏から認められました。
細川氏というのは室町幕府の管領(将軍に次ぐ最高の役職)ですから、(波多野氏は)山陰からきて室町幕府の権力下に入ったと言えるでしょう。これが初代の人なんですが、室町幕府の中では細川家に従っていきます。応仁の乱が終わったあとも、細川は四国から京都あたりまでを押さえますから、家来として力を蓄えていったんでしょうね。
二代目の波多野元清の時に、この西丹波一帯の支配を認められてこのあたりにいた土豪層を家来化し一つの武士団のリーダーになっていきました。
三代目の波多野秀忠の時になると、もうこのあたりの武将たちを家来にして戦国大名的な存在になります。
ところが四代目の波多野晴通のときに三好長慶と松永久秀の勢力によって攻められ、丹波を追い出され少し流浪の時期があるんです。ちょうど今年の大河ドラマで明智光秀と出会ったことになっている松永久秀、その親分が三好長慶です。
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『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年8⽉20⽇放送回音声